『右の売国、左の亡国 2020年、日本は世界の中心で消滅する』
おかげさまで快調な滑り出しです。
アマゾンでは紙版が発売初日に売り切れ、
一時は通常2〜4週間以内に発送しますという表示に。
ただし版元のアスペクト営業部が
迅速に対応してくれたのでしょう、
今日は「在庫あり」に戻っています。
注文しても時間がかかる、ということはありませんのでご安心下さい。
また電子版は24日の時点で
政治史・比較政治部門の新着ランキング1位を達成!
みなさま、ありがとうございます。
さて。
岩手県の達増拓也知事が22日、
この本について画像入り連続ツイートをして下さいました。
ご紹介しましょう。
1)佐藤健志『右の売国、左の亡国』。日本の悲惨な実情。
しかし論理の明快さが痛快です。
何が変なのかを知ることで、変な事をしないようにする、
というのが事態打開の確かな一歩なのでは、と思いました。
「変」を甘く見て持ち上げすぎたのが戦後の敗因かも。
2)「太陽の季節」に始まり、学生運動的カウンターカルチャー、
80年代、芸人の主流化、というのが
戦後の「変」の系譜でしょうか。
カルチャーは「変になれば楽しくなる」(アニメ『うる星やつら』)でいいと思いますが、
政治がそうだと、やはりマズイ。
3)さかのぼれば南北朝のバサラ、安土桃山のカブキ、
江戸の町人文化、近代のエログロナンセンス、と、
日本には「なんでもあり」の民衆文化が分厚い層を成している。
それは政治的たくましさの元にもなるが、政治を堕落させ衰退の元にもなる。
4)日本の「なんでもあり」文化に流されないようにするには、
保守が仁愛を、リベラルが理想を、それぞれ失わない事だと思う。
新渡戸稲造や宮沢賢治が参考になる。
「なんでもあり」は文化として、たしなみ程度に、ほどほどに。
知事、ありがとうございます。
ここから思い出されるのは、福田恆存さんが1970年代に書いた
「せりふと動き」という評論の一節。
どうぞ。
何より黙過しえぬことは
芝居、あるいは一般にフィクションと現実との混同が
文化の荒廃をもたらし、
文化の荒廃から
その両者(注:フィクションと現実)の混同が生じているという現状である。
要するに
文化だったらワクワク感があればいいかも知れないが
現実の政治をワクワク感でやったら大変なことになる
そして
政治がワクワク感で展開されるような社会では
現実と虚構の区別がつかなくなるせいで
ますます「政治だって、ワクワク感でやっていいんだ」と思い込む者が増える
ということです。
その意味では
フィクションと現実の混同は、文化のみならず現実の荒廃も引き起こす
と断言できるでしょう。
しかし達増知事も指摘されているように
変、ないし「何でもあり」のパワーは
プラスに活用することができれば、じつは有益。
「変」という文字の由来は、関連して象徴的です。
この字はもともと「變」でしたが、
字の上半分「糸言糸」は
糸がもつれあってほどけないさまを表した会意文字。
それに「夂」がついたことで
不安定にもつれて変わりやすいことを意味するようになったのです。
「糸言糸」の下に「心」がつけば
「戀」(=恋)になるのも、分かる話ではありませんか。
映画「青い山脈」には
高校生がラブレターに「戀しい戀しい」と書こうとして
「變しい變しい」と書いてしまう、というギャグがありましたが
「変」と「恋」とは文字通り近いのです。
余談はさておき、
「変」の本来の意味から読み取れるのは
激動の時代において、変であることは有効な対応たりうる、ということ。
時代が「変」なのですから
変をもって変を制する、という戦略は当然ありです。
ただしそのためには、
変であることを受け入れつつ、
変が防相、いや暴走しないように制御しなければなりません。
そのためには何が必要か?
・・・昨日の記事
「『右の売国、左の亡国』本日発売!!」で提起した
〈狂気のインフラ〉という概念を
ここで思い出して下さい。
狂気のインフラとは
社会にひそむ「変」のパワー(=狂気)を制御し、
肯定的・建設的な方向へと発散させるために必要な
物理的・制度的インフラストラクチャーのことなのです。
正しく制御された狂気に支えられた仁愛や理想、
これこそが日本再生という
望ましい「変」をもたらすカギと言えるのではないでしょうか。
というわけで
『右の売国、左の亡国』と
きたる『炎上するニッポン』は
きれいにつながっているのであります。
なお。
ご存じの方も多いと思いますが
新渡戸稲造も宮沢賢治も
ともに岩手県人です。
ではでは♬(^_^)♬
3 comments
GUY FAWKES says:
2月 25, 2017
『右の売国、左の亡国』、非常に順調に読み進めております。
『愛国のパラドックス』でも感じましたが、アスペクト社さんの編集・推敲も相まって
佐藤先生の文章は施光恒先生に引けを取らない読みやすさ、理解しやすい構成になっていると感じます。
更に当該書の第1部を読了した際、非常にタイムリーなことに本日の「新」経世済民新聞に
平松貞史さんが担当する「霧につつまれたハリネズミのつぶやき」最新回が。
昨今、一大スキャンダルとして賑わせている「安倍晋三小学校」こと「森友学園」の土地代を巡るキナ臭い一連の事案。
しかしながら「教育勅語を読み、国旗掲揚、国歌斉唱をしっかり行うとしているそう。これが問題だと言うなら、何が問題なのか明確にしてもらいたいものです。「戦前復古」みたいな使い古された、日本文化を戦前と戦後に分断しひとまとめにする浅薄な歴史観…「戦勝国の視点」で印象操作しないでほしいものです。明治から戦中までを批判するにしても、江戸から八世紀ころまでさかのぼった広い意味での「日本の視点」で行うことは可能なんですから。
と、平松さんは「そこで行われている教育」自体にはしっかり一線を引いております。
(私的には幼稚園・保育園にまで国歌斉唱・国旗掲揚を強要するのと同じ疑問を持っていますが…
平松さんは決して一緒くたにはされない、流石の筋を通した是々非々な分析です)
正に昨年の丸山和也議員の愚問的発言とそれに対する批判の焦点のズレと併せ読むと…いやはや、ピタリと符合しますね。
まごうことなき慧眼、恐ろしや!
mashimaro says:
2月 25, 2017
確かにサスペンスドラマ(俗に言う二時間ドラマ)も現在の街並みに背広の刑事等々…という様に、
過度なフィクションと現実の混同はサスペンス文化を荒廃させましたね。
これが江戸川乱歩の世界観や、伝説を基にした話なら、まだ面白いんですけどね。
現実をあまりに連想させてしまうドラマもサスペンスも面白さという観点でいえば、やはり劣ると言わざるを得ないですね。
玉田泰 says:
3月 7, 2017
都政の小池劇場にある意味「変」を感じます(劇場って…)都知事はワクワク感だけで押し切ろうとしているのではないでしょうか?
一時期の民主党政権や今の沖縄県政にも「変」を感じます。なんというか、あまりに単純な勧善懲悪の図式を感じます。そしてこれらの人々に共通するのは、混乱ばかりで物事が全然進展しないこと。
フィクションの中で見得を切るというのかな?
それにしても「狂気のインフラ」とは何を意味するのか見当がつきません。出版を待つしかないのかも?