敗戦70周年の夏は
安保法制をめぐる論議が燃えさかっています。
思えば戦後日本は、
〈とにかく戦争はいけない、平和でなければ〉
という観念的な平和主義にとらわれ、
戦争どころか
安全保障をめぐる現実にも
なかなか直面しない傾向が強かった。
今までは幸いにも
(あるいは幸か不幸か)
それで済んできたわけですが
これからもそうとは限りません。
とはいえ
〈戦争の現実に直面する〉とは
実際には何を意味するのでしょうか?
いろいろな答えが可能だと思いますが、
まずは次の二点を受け入れることから始めるべきでしょう。
1)戦争はきわめて多くの側面を持っており、単純な肯定も否定もできない。
2)ただしどんな戦争も、〈人間の破壊〉を不可避的に伴う。
関連して、ご紹介したい映画があります。
塚本晋也監督の「野火」。
ⓒ SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER
今週の土曜、7月25日より
渋谷のユーロスペース、
立川シネマシティなどをはじめ
全国で順次公開されます。
もちろん、大岡昇平さんの傑作小説の映画化。
こちらについては「表現者」61号掲載の評論
「汝の右手がなすことを」で取り上げました。
あらためて要約すれば
「野火」は太平洋戦争末期のフィリピンを舞台に
田村という兵士の体験を描いています。
日本軍はすでに総崩れ状態。
米軍と戦うどころか、その日その日を生きるだけで精一杯というところ。
そんな中、結核を患っていた田村は
足手まといとして所属部隊から追放されてしまう。
向かった野戦病院も米軍に破壊され、
飢えに苦しみつつジャングルをさまようことに。
それでも、彼を取り巻く自然は美しい。
残酷なまでに美しい。
ⓒ SHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER
死と隣り合わせの敗残兵は、その美しさの果てに何を見たのか?
「野火」は1959年にも
市川崑監督が映画にしていますが
塚本監督いわく、
リメイクではなく、あくまで原作から感じたものを映画にしたものです
とのこと。
今年の夏、観るべき映画の一つではないでしょうか?
塚本版「野火」については
本日の新日本経済新聞でも取り上げました。
9:00ぐらいから配信されると思いますので
あわせてご覧ください。
最後におまけの画像を。
先月、ユーロスペースで試写が行われた際の塚本監督です。
ではでは♬(^_^)♬
3 comments
たかゆき says:
7月 22, 2015
我々は これから 何を見るのか?
田村の体験を追体験しないために
田村の見た残酷な光景を
目にしないですむために
戦争の現実に直面しないですむために
日本独自の核兵器を保有することが
最善の策であると
小生は認識しております。
akkatomo says:
8月 2, 2015
現実に直面しない戦争などありはしません。
というよりも戦争はどこまでも現実と直面しなければならず、そこから目を反らすという事は大罪です。
幻想に基づいた意思決定をした方が、こういう悲劇的な結末に近づいていきますので。
フルート says:
7月 23, 2015
戦争や紛争は、自然災害などからの被害が絡んで発生する事もあるとは思うのですが、それでも最後は人間が判断して起こす(起こしてしまう)ものなのですから、戦争や紛争の問題を考える時、問われるのは、やっぱり人間同士の関係性についてなんだと思います。
一人の人間が破壊されてしまったという事は、一人の人が破壊されてしまったという事ではなくて、人間同士それぞれが共有していた人間性が破壊されてしまったという事でもあるのだと思います。私が考える人間性とは、一人の人間としての自分全体を直視(←不可能な事だと判ってはいるのですが・・一種の努力目標です。。)した時に感じてくる人と人との間としての繋がりです。自分が感じて使用する言葉も、その言葉を自分が感じられる以前から既に感じて使用していた人間からの成果と影響なしには考えられません。これは言葉だけじゃなくて例えば音楽やファッション・文学・哲学など文化全体に言える事でもあるんだと思います。この事は同時に、人間の中にある間(徹底的に個人としてだけ自分を見ればそれは自分の中だけになるのかも知れないのですが、人間として自分を見れば、それは間として内と外に披かれたものなのではないでしょうか)(?)を、恣意的に区切った現在認識下で捉えてはいけなくて、しっかり過去から繋がったものとして受け止めなければ・・という事でもある様に思いました。
戦争は人間(人間性)の破壊を伴います。でも人間性の破壊は戦争からだけ起こるのではなくて、過去からの繋がりを絶って今を認識する事からも起こり得てしまえる様にも私には思えました。。現在の全体を直視する事も難しいのですが、それでも過去には過去の全体があった筈で、ツジツマが合わない、恣意的に区切ったり・視野を狭める事で感じられる『現在』という現在認識が、バラバラにその恣意的な未来を占有しているという点では、与党も野党も同じな様に思えるのです。。