小松春雄先生による
トマス・ペイン「コモン・センス」の訳が
じつにご立派なものであることについては
昨日も指摘しました。
福田恆存さんなら、
この訳文は
日本語ではない、
日本語に似た何語か
にすぎないと、
バッサリ片付けるでありましょう。
(福田恆存「二つのヘッダ・ガーブラー」より。『せりふと動き』収録)
せっかくですから、
もうちょっと追い討ちをかけます。
昨日、ご紹介した箇所のすぐあと。
昨日の箇所は
読んでも訳が分からないだけ(!)でしたが、
今日の箇所になると
これに誤訳まで入り込んできます。
では、小松先生の訳文をどうぞ。
このパンフレットでは、
われわれ相互間の個人的なことには
一切触れないように努めた。
したがってここには、
個人にたいする非難はもちろん
称賛も出てこない。
識者や名士に対しては
パンフレットなどによって考えを改めさせる必要はないし、
また浅はかな人間や敵意を持った者は
転向することがたいして苦痛でないなら、
おのずから考えを変えるだろう。
(13〜14ページ)
まあ、とりあえず意味は分かります。
問題は、それが間違っていること。
というわけで、『コモン・センス完全版』です。
以下の議論において、
特定の個人にたいする言及はすべて排除されている。
賞賛も非難も、一切盛り込まれていない。
賢い者、価値ある者は、
こんなところで褒められなくとも、おのずと評価されるのだ。
逆に思慮のない者、
あるいは悪意のある者は、
放っておけば消えてゆく。
反論や説得にこだわりすぎると、
向こうもムキになって頑張るため、
かえって延命に手を貸す結果ともなりかねない。
(70ページ)
小松訳の問題は明らかでしょう。
細部がまるでいい加減なのです。
そしてこれは、彼の文章の呼吸がメチャクチャであることと
決して無関係ではない。
明快な呼吸に基づいた文章だと、
内容がちゃんとしているか
あるいはデタラメかが、
明瞭に浮かび上がるのです。
その意味では
訳文の呼吸がメチャクチャだから、誤訳が簡単に入り込む
とも言えるし、
原文の意味をちゃんと把握していないから、呼吸のメチャクチャな訳文しか書けない
とも言えます。
つづきはまた明日。
ではでは♬(^_^)♬
6 comments
widelogy says:
8月 13, 2014
文章の呼吸、実に奥深いですね。
普段あまり気を配らないものの中に、実は大きな力が秘められているということはよくあることですが、正にこちらもしかり。単に文法にそって言葉を並べても、本来の力を発揮できないのですね。
「国家のツジツマ」のまえがきや第二部で語られていた、「話し言葉による議論の意義」の秘密の一端に触れたような気がしました。
せい says:
8月 13, 2014
無理をせずに頭にすっと入ってくる文章力があり、(ブラック)ユーモアもある知識人。これがこれからのトレンドになるといいですね。テレビには出られそうもありませんが。
kazu says:
8月 13, 2014
おはようございます。
呼吸が滅茶苦茶と句読点が適当、相互に関係がありそうですね。
メルケル says:
8月 13, 2014
『コモン・センス完全版』買いました。これから読むのが楽しみです。
また、『僕たちは戦後史を知らない』を読了致しました。非常に感銘を受けました。先生が引用したカフカの名言にならって言えば『読んでショックを受ける本』の名に値すると思います。
この本である種の「戦後精神史」の変遷を炙り出した佐藤先生に、是非とも今度は「明治~敗戦」までのいわゆる近代(戦前)の日本人の精神の変遷についてがっぷり四つに組んで一冊の本を書いて欲しいですね。
折に触れ色んな著作で近代日本の精神構造について語ってこられた先生ではありますが、是非「明治~大正~昭和~戦争」と言う形で歴史にそった形でまとめられたものを読んでみたいです。
題して、『僕たちは戦前史も知らない』。
早速、詳伝社のHPに書評を交えた要望を送っておきます(笑)。
akkatomo says:
8月 13, 2014
文章とは、言葉とは音楽だ!というオラが説をぶちあげたい
ついぞ納得された事がないけど。何故だッ
マゼラン星人二代目 says:
8月 14, 2014
前回は小松訳アンチでしたが、今回は小松訳支持です。
無用な個人攻撃で、(想定されている)論敵に恥をかかせて引くに引けないところに追いやることの愚、先生の訳文で言えば、「反論や説得に」力を入れすぎて、かえって論敵を刺激して「ムキになって」の「頑張」りを惹起してしまうという本末転倒。
確かに原著者が想定していたのは、そういうことだったのかも知れません。
しかし、その一方で、想定していたことをあえて直接的に描写せず、むしろ、「仄めかし」にとどめるべく、いささか遠まわしな表現を選び生臭さを封印しにかかったのは、(小松御大ではなく)原著者自身なのではないでしょうか。だとすると、訳文を作成するにあたってはそのことも尊重しなくてはならないはずです。
そういうわけで、”unless too much pains are bestowed upon their conversion.”という箇所を、できるだけ日本語らしく訳出するとなると、やはり、
「転向することがたいして苦痛でないなら、」
以外の選択しかないと思います。少なくとも、これを大きく逸脱した訳文は考えられません。
(この訳文から、わかりづらさ、先生のお言葉で言えば「細部のいいかげんさ」が看取できるとなれば、誉れは訳者ではなく原著者自身に帰すべきです)
もっとも、売文を生業とするものがテキストのわかりづらさを放置してよい謂れはなく、訳者は自身の責任において別個に注釈を施し、ヨリ具体的な解釈を披瀝してもよい、というより、するべきだ(った)、とは思いますが。