ハフィントンポストに、
しょうもない記事が出ていました。
「安保法案反対デモで孫が死んだ」とTwitterに噓の投稿→発信者の情報開示命令
Twitterに1歳の娘の写真を無断で転用されたうえ、
「安保法案反対デモで孫が死んだ」
と嘘の書き込みをされたとして、
新潟市の30代の夫婦が、Twitter社に対して発信者の情報開示を求め、認められた。
それによると今年7月、
この夫婦の娘の写真を添付して
以下のようなツイートがなされたそうです。
【拡散希望】安保反対国会前デモに連れていかれた、
我が孫、聖羅が熱中症で還らぬ人になってしまいました。
あの嫁はゆるせません。
わたしたちは何度も聖羅を置いてくように話したのですが…。
聖羅は何度も何度も帰りたい、と母に泣いてたそうです。
このツイート、本当に拡散してしまったらしいのですが、
何というか、呆れるしかない話。
安保法制に賛成するか反対するかは個人の自由ですが
作り話で相手側を貶めようとするのは
(内容から言って、その意図があったとしか思えません)
明らかにルール違反でしょう。
まして他人の子供の写真を勝手に使ったのは論外。
だいたい、
聖羅は何度も何度も帰りたい、と母に泣いてたそうです。
とのことですが
この祖母はどうやってそれを知ったのか?!
祖母自身はデモに行っていない。
嫁が話すとも信じがたい。
かりに息子(つまり嫁のダンナ)が一緒にデモに行ったとして
なぜそのダンナは「聖羅」を連れて帰らなかったのか。
これで「あの嫁はゆるせません」ねえ・・・
とはいえ。
問題のツイートで一番気になるのは、
このようなお涙頂戴型のプロパガンダこそ、
ほかならぬ反戦・平和運動の得意技だということ。
ためしに
孫を「女学校の同級生」に変え、
安保反対国会前デモを「戦時中の勤労動員」とか
「ひめゆり部隊」に変えてみましょう。
いわゆる「戦争の語り部」の述懐そのものじゃないですか。
で、
戦争はゆるせません。
わたしたちは平和がいいと、いつも願っていたのですが・・・
死んだ友達も、戦争が終わるまで生きていたいと、いつも話していました。
なんてオチがつくわけです。
つまりこのツイート、
主観的には否定したがっているものに
自分がなってしまっている。
久しぶりに断言しましょうか。
右か左かの時代は終わった!!
ではでは♬(^_^)♬
7 comments
佐藤法道 says:
10月 17, 2015
ブログ楽しく拝見しています。
「言論はウソとの戦いです」と藤井先生が仰っていましたが(正確ではありません)、ウソをついた側は、たとえ正義であっても、必然的に悪者になってしまいます。
僕は「女の子にいじめられている」とウソをついて引きこもっている状態です。
佐藤法道 says:
10月 17, 2015
あと昨日のブログの事なのですが、保守と左翼の違いを勉強させていただきました、ありがとうございました
リベラルと左翼の違いは何でしょうか? 幼稚な質問ですみません
SATOKENJI says:
10月 17, 2015
戦後日本では平和主義的・反国家主義的風潮が(今でも)根強く、それが左翼の支えになってきました。
とはいえ社会主義陣営の崩壊をはじめとする、さまざまな時代の変化により、彼らのスタンスも昔と比べればかなり変わっています。
よって私は〈往年の左翼のようなスタンスを保ってはいないものの、平和主義的・反国家的風潮は受け継いでいる人々〉をリベラルと規定しています。
ただし人によっては、異なる使い方をしている場合もありますのでご注意ください。
佐藤法道 says:
10月 17, 2015
佐藤さん、ありがとうございます。
これからもブログを楽しみにしています。あと、引きこもりを辞めれたら、野火や劇団四季のミュージカル、宝塚も観てみたいです。
マゼラン星人二代目 says:
10月 17, 2015
>しょうもない記事が出ていました。
その通り。情けなくて目頭が熱くなってくる。
この件に関しては、それだけです。
Guy Fawkes says:
10月 18, 2015
佐藤先生、これは私のこじつけかもしれませんが、
そもそもこの文章は反戦平和運動特有の「お涙頂戴型のプロパガンダ」なのでしょうか?
「憎き嫁の所為で私は最愛の孫を失う羽目になった、これだけの犠牲を強いられた以上は安倍は辞めろ!」という反対派の主張も、「憎き嫁は強引に孫を連れて行った、安保法案に反対する輩は子をダシにする碌でなし共だ!」という賛成派の主張とも受け止められる様にも感じられるからです。
即ち、当該記事の捏造文章は法案への賛否両者が都合良く利用できる
レトリック的な本質が内在している様に思えてなりません。
実際、「今回のデマの主目的は安保法案反対派へのネガティブイメージの植え付けだと思われますが、
なるべく拡散するよう随所に釣りの要素が入れられています。 」との見解を発表する方もいらっしゃるようです。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinoharashuji/20150808-00048138/
フルート says:
10月 18, 2015
嘘でも良いので相手を責めさえすれば
それだけで自分の価値が高まったり・自分の価値観が守られたりする、
そんな価値観を持つ現在の自分が、
現在から要請するかたちで相手の現在や過去を捏造して行き、
そもそもの相手の価値だけじゃなく
捏造行為をしている(した)自分自身に対しても鈍感になって行く。
多分こういう事なんじゃないかなと思うのですが・・これもやっぱり
『偉大なる行進』と地続き(?)な問題な気がしました。
『表現者』も『存在の耐えられない軽さ』も私はまだ読めていなくて
間違っていたりトンチンカンな解釈をしてしまっている可能性大なのですが、、
『偉大なる行進』状態のまずさの中には、
自分と現在を同一視しながら相手を現在から忘れさせ様として行く事から来る、
相手の歴史性や相手と自分との関係性の忘却も含まれている気がします。
(全く的外れだったら本当にすみません…)
自分が現在になったつもりで(自分達が現在を代表しているつもりで)
相手の事を現在から忘れさせ様としたって、
相手が現在を忘れずより現在に正しく関与して行ったなら、
正しい方向に進める可能性は可能性としては残る気がするのですが、
相手も同じ様に忘れさせる戦法で応じてしまったら、
向かっている先は偉大というより盛大な失敗。。な気もします。。
失敗の可能性・前より悪化して行っている可能性に鈍感になってしまうのも、
突き詰めて考えて行くと結局
現在にある過去からの繋がりに鈍感になっている事や
自分の考える現在や未来の為に過去や現在を悪用してしまっている事から来ていて、
それが人類の行進であるのか自分だけの行進であるのかに拘わらず、
過去を繋ぎ止めておかなかったら
過去だけじゃなく現在についても正しく感謝する事は出来ないし、
現在について正しく感謝できない・評価できない状態は、
やっぱり相手と自分自身に対し自分が鈍感になっている状態、な気がします。
そもそもの相手の価値を感覚する為にも、
自分の価値を相手に感覚してもらう為にも、
自分がそもそもの自分に成れている必要はあるんじゃないかなと思いました。
(本早く読みます。。すみません。。)