昨日の記事
「多様性と多義性の保守」について、
NOAさんという方から
こちらも興味深いコメントをいただきました。
記事の中で紹介した
ソウルメイトさんのコメントにたいする批判なのですが、
なにぶんコメントが長いので
関連した箇所を抜粋してご紹介しましょう。
(全文は「多様性と多義性の保守」コメント欄でご覧になれます)
彼(注:ソウルメイトさん)の主張は、「多様性」「多義性」といった言葉で柔軟性を装おうとしていますが、
その内実はただの硬直化した相対主義にすぎません。
共産主義と天皇制が簡単に接続可能な思想でないことは明らかであるにもかかわらず
(もし本気で両者を接合しようとすれば、
たとえばどちらかの根幹的価値を譲るなどの多大な思想的努力が必要になるであろうにもかかわらず)、
そういった全ての困難を「多様性」や「なんでもあり」といった言葉で覆い隠して(誤魔化して)、
つまりは考えることをそこで全部打ち止めにして、
あらゆる思想的困難を解消してみせた気になっているだけのことです。
彼がしているのは、思想の多様性の擁護などではなく、ただの思考停止です。
こういう「何でもアリ」的な意見を言う人が巷には本当に多いですが、
彼らは他者の思想の尊重など本気で考えてはいません。
本心ではそうなものはどうでもいいとしか考えていないはずです。
彼らが口を開けば「何でもいいと思う」と言うのは、
他者を尊重したいのではなく、ただ単に「それ以上考えるのが面倒くさい」だけなのです。
ソウルメイトさんのコメントに
相対主義へとつながる要素がないわけではありません。
「人間は理屈じゃない。だから、主張が矛盾していてもいいじゃないか」
といった方向に議論を持って行けば
NOAさんの批判通りとなります。
ただし、あのコメントの範囲で言えば
硬直した相対主義には至っていないと思います。
皇室への敬慕と共産主義志向ですが、
共産主義を「従来の社会体制を革命により破壊し、労働者階級の独裁を志向する思想」
と解釈すれば、
たしかに簡単に接続可能ではない、
というか接続はずばり無理です。
しかるに「政府の強力なリーダーシップのもと、平等に重きを置く形で社会の存立・発展を図る思想」
と解釈すればどうか。
この考え方は、たしかに純然たる共産主義とは違いますが、
自由主義へのアンチテーゼとなっている点において、社会主義的な性格を持っています。
そして「国家のツジツマ」で中野さんと話し合ったように、
こういう社会主義は国家主義と理念的に融合しうる。
昭和初期の「革新官僚」の発想など、まさにこれでしょう。
革新官僚の代表格と言えば、かの岸信介さんですが、
彼が満州国で実施した「満州産業開発五カ年計画」は、
ソ連で行われた計画経済が手本だったと言われます。
日本に戻って商工省(現・経産相)の次官となった岸さんは
つづいて「経済新体制」構想を提唱しますが、
これについては商工大臣だった小林一三さんより、
「経済新体制の考え方はアカだ」
と批判されたほど。
さすがに岸さんも、
「大臣たる者が、官吏の中にアカの思想を持つものありと断ずるとは由々しい事だ」
と反発したものの、
とまれ国家主義と社会主義が理念的に接続可能なものとすれば、
皇室への敬慕と、左翼的な平等性の志向も接続可能ということになります。
そして社会主義と共産主義のつながりを思えば
皇室への敬慕と、共産主義への傾倒が
心情的に(=論理的にではなく)両立することも
ありえないとは言えなくなってくる。
となると、そのような矛盾した心情について
保守主義者が取るべき対応にしても
「共産主義に傾倒しているんだから全否定しかない」
と決めてかかる必要はないでしょう。
裏を返せば、柔軟な保守主義は
共産主義に傾倒する心情を持った者まで取り込めるかも知れないのです!
・・・というところで、ひとまずいかがでしょうか。
なお岸信介さんと小林一三さんの間で生じた対立の詳細については、
「国家のツジツマ」第三部をどうぞ。
ではでは♬(^_^)♬
13 comments
kato says:
11月 30, 2014
お見事!確かに共産主義も各国で独自の変遷を辿っている事実を踏まえれば、その解釈は充分存立しえます。現に我が国の共産党は武力革命を放棄すると宣言して居ます。上智大学の渡部名誉教授も皇室を敬慕する共産党が存在し得るとも言われてましたね。
NOA says:
11月 30, 2014
わざわざコメントを採り上げていただき恐縮です。
文章が長すぎるという点はその通りで、こちらもご迷惑をおかけしました。
実は私も、右派と左派が手を取りあうべきだという意見には賛成しています。
(国家のツジツマももちろん読んでいます・・・というかその前に動画で拝見しました)
最近は左派といっても個人の尊重ばかりを謳う人権主義的な(≒反国家的な)左派ばかりではなく、特に労働問題方面の知識人に顕著ですが、右と左に分かれている思想勢力を「ソーシャル」という観点から括ることが可能だと主張する左派も現れてきていて、
ただ、そういう左右が結集すべき旗としての「ソーシャル」を、「社会」主義と表現するところまではギリギリセーフかなと思いますが、それを「共産主義」と言ってしまうのは、言葉の選定としてさすがに度が過ぎているのではないかと私は感じます。
本音をいえば「社会主義」でも本当は(さすがに手垢にまみれすぎている言葉なので)ちょっとなぁ…と個人的には思ってしまうところはあります。ただ、さすがにこれは別に適当な候補があまりないので仕方がないのかなという気がします(「社会思想」という言葉もいつの間にか左派的でない中立的な用語として用いられるようになりましたし)。
いずれにしても、ただの言葉の問題だといわれれば、たしかに言葉の問題にすぎません。
しかし、この言葉の選定の問題についていえば、明らかに左派のほうが(上述のように)右派よりもよく考えていると思います。度が過ぎるのは問題ですが、保守の側も、もうちょっと言葉遣いに鋭敏になってもいいのかなと感じます。
NOA says:
11月 30, 2014
3段目の最後が尻切れトンボになってしまいました。
「きていて、」は「きています。」でお願いします。
長文、脱字・・・重ね重ねご迷惑をおかけしました。
ソウルメイト says:
11月 30, 2014
拙いコメントを取り上げてくださって汗顔の至りです。佐藤さんもNAOさんもわたしの言わんとするところを正解に理解していただいた上で、批判なさっておられると思います。とくに佐藤さんの人間についての洞察や深い理解には、敬服しかつ感銘を受けました。たぶん、佐藤さんは、わたしが言わんとしたところを十二分に了解された上で、問題点を指摘しておられるのだろうと思います。おっしゃらんとするところは、まことに正鵠を射ていると思います。わたしは、「人間というものは、何でもありな存在ではないか?」と書きましたが、人間一般についての存在論的描写としてはそうであっても、個人として何をどう考え、いかなら言をなすかについては、何でもありであっていいとは、思っておりません。極めて稚拙で舌足らずなコメントを書いてしまったと反省いたしております。とくに、イデオロギーというものが本来的に原理主義である以上、まともな天皇崇敬者が共産主義の信奉者でありうるはずもなく、MAOさんのお叱りを受けるまでもなく不適切な表現であったと思います。佐藤さんがこの上もなく適切にご理解くださったように、わたしは、イデオロギーに不可避的に内在する硬直性というものを批判したかったことと、イデオロギーそれ自体が人間そのものを疎外するように作用することの問題点を指摘したかったのですが、ならば、そう書けばよいものを不必要な物言いをしてしまったと後悔しております。人間の口から発せられる言葉、書かれ文章には、その人の人となりの多くが顕れるものだと思います。NAOさんは、そのあたりをよく見抜かれてご批判くださったものと思います。もとより、馬齢のみ重ね、未だ未熟者であるわたしには、弁解の余地などないと深く反省いたします。また、佐藤さんには、拙いコメントを取り上げてくださった上に懇切なるご教示を賜り、まことにありがとうございました。心より感謝申し上げます。末筆ながら、佐藤さんが三橋貴明さんの『「新」日本経済新聞』にお書きになられた『GDP統計と「第二の敗戦」』の記事、とりわけ、昭和史および日本陸・海軍の研究者である半藤一利氏の著作からの引用を交えての考察は、非常に素晴らしいものだと感服いたしました。ますますのご活躍を祈念申し上げます。
NOA says:
11月 30, 2014
私からの一方的な批判に対して、冷静なご返答をいただきありがとうございました。
私もソウルメイトさんへの個人攻撃ではなく、なるべく一般論としての批判という形をとりたかったので、意識的にソウルメイトさんのお名前は出さないようにしてコメントを書いていたのですが、それでも些かキツイ表現を使ってしまったなぁと後悔しております。この場を借りてお詫びいたします。
どうも少々エキサイトして長文を書いてしまったのは、「人間はそんな簡単に割り切れるものじゃないよ・・」とか、そういう当たり障りのない言葉で議論や会話自体を拒絶する空気が特に私の周囲に蔓延しており、その恨みつらみが(汗)ここにきて一気に噴き出したからだというのが、言い訳も兼ねた自己分析でございます。
ソウルメイト says:
11月 30, 2014
ご丁寧なコメントを頂戴し、恐縮です。NAOさんの優れた論理的思考力に敬服いたします。NAOさんがおっしゃるように突き詰めて考えもせず、適当なところで考えるのを止め、大勢に迎合し、押し流されるままになることをよしとする風潮は、わたしも嫌悪します。故山本七平さんは、それが自分と信念とは相容れない思想の持ち主であってもきちんと信念に根ざした人間は、信用できる、信用できないのは、自らを律する思想もしくは信念のないやつだ、と書いておられましたが、一理も二里もあると思います。ところで、硬直したイデオロギーは、容易にドグマと化し、それが本家本元たる人間そのものを疎外することは、大いにありうることで、己が殉ずる思想も信念もないやつも困ったものだと思いますが、そこのあたりの兼ね合いが難しいもなだと思います。わたしなどは、中野剛志さんが書いておられるように、プラグマティズムあるいは、現実主義の依拠する中庸というもの魅力を感じます。この点に関連して、直木賞受賞作家の玄侑宗久さんが「しあわせる力」および「日本人の心のかたち」という本を書いておられますが、なかなかに示唆に富む本だと思います。NAOさんのような方にお読みになっていただければと思います。ご高見を深謝し、今後のご教示を賜りたくお願い申し上げる次第でございます。
NOA says:
11月 30, 2014
その上手い落としどころと言いますか、中庸、あるいはバランスというものが、最終的には一番重要なところだというご意見には私も100%賛成です。そして、そのバランスの支点をどこに置くべきなのかということが、最後に残る課題であり、たぶん最後まで答えの出ない課題なのだと思います。
プラグマティズムについては、昔、池田晶子さんが(どの著書だったかも忘れてしまったので記憶に任せて適当に書いてしまいますが)「プラグマティズムこそ“価値”が問われる思想だ」みたいなことを言っていたのを思い出します。
私はこの言葉を、形而上学的な空中戦を避けて「実用」の観点から思想を構築しようとするプラグマティズムにおいても、結局、何をもって「実用(=役に立つ)」と見做すのかという基準の問題(つまりは“価値”の問題)は丸ごと残ってしまう、という意味だと理解しています。つまりは、プラグマティズムにおいてもなお、価値をめぐる空中戦(一種の形而上学)からは逃れられないというわけです。
そうなると、最後はやっぱり趣味の問題になるのかなと・・・(自爆)。
中野先生や佐藤先生の思想は、社会問題を考えるうえで常に参考にしていますが(というより、ほとんどそのまんま真に受けていますが)、お二人ともゴリゴリの哲学者ではないので、哲学的な基礎づけは自分で探索していくしかないかなぁという感じです。
玄侑宗久さん、私も大好きです。時々ですが禅寺や瞑想道場に出入りするもので、禅僧の方の本は結構読んでいますが、玄侑さんはその中でも最もバランス感覚に富んだ方だという印象があります。私は玄侑さんのおかげで、入試古文のためのつまらない道具でしかなかった『方丈記』の素晴らしさがはじめて理解できた気がしました。
ご教示いただいた本も必ず読んでみたいと思います。
長々とお付き合いくださり感謝いたします。
また勢いに任せて何か書き込んでしまうこともあるかとは思いますが、その際はまたよろしくお願いいたします。
akkatomo says:
11月 30, 2014
横になりますが。私にとっても有意義な議論でした。
NOAさん、佐藤さんありがとうございます。この場を借りましてお礼申し上げます
akkatomo says:
11月 30, 2014
さて、話は変わって。
仮に左翼や国家主義者が日本や天皇陛下に対する意識的無意識的愛着があるとして。
現代での実践としてはどんな形で表れてくるんでしょうかね。
今、日本は内外共に危機的な状態ですけれども、
そういう境涯でこそ真価というものは見えてくる訳で。注目すべき事柄が、
いい加減極まる政治を半ば無視するように動いてるかもしれません。
そこんところが観察や考察の対象としては面白くなってくるんじゃないか、と。
ソウルメイト says:
11月 30, 2014
>NAOさん
「プラグマティズムや中庸といったところで、価値の問題は丸ごと残される」。まさしく、その通りだと思います。その「価値の問題」にいかなる解答を与えて行くかが、大事なところだと思います。佐藤さんも中野さんも、もっぱら社会的、政治的な文脈においてプラグマティズムや現実主義的手法の有用性を主張しておられるのであって、哲学的命題として普遍的な解答を提示しているわけではない、というNAOさんの「読み」は、たぶん、正解なのではないかと思います。わたしは、社会主義やマルクス主義が暗黙のうちに、ということは、無意識的に前提としている「価値」というのは、無条件に正しいとか絶対的な正当性を主張しうるものではないと思います。たとえば、社会主義者やマルクス主義者が追い求めてやまない公正とか平等の問題も現実的妥当性が問われる問題で、原理主義的にいついかなる時も絶対的に優先されるものではないと思います。経済学者の青木泰樹さんは、「経済学とは何だろうか」という近来、まれに見る名著の中で、古典派経済およびその派生物である新古典派や新しい古典派といった経済思想が、あまりにも純粋論理を偏重した結果、現実から遊離した、現実の問題を扱うには無能で無力な観念的かつ思弁的な知的遊戯に堕してしまっていることを「主流派経済学は、人間の丈にあわせてベッドを調製するのではなく、ベッドの長さに合わせて人間の足をチョン切る」という愚行を犯している、と非難しておられますが、観念的思考ー思想や科学的仮説、学説などに常に内在する重大な問題だと思います。三橋貴明さんや藤井聡さん、島倉原さんなどが主張しておられる「経世済民」の思想は、思想とは言うものの、きわめて具体的で、人々の暮らしがどうしたら豊かで賑わいあるものとできるのか、について現実的妥当性に富んだ人間を大事にする、人間復興の思想だとわたしは思います。現代金融資本主義が捨象して顧みない人間に再び光を照らし、人間を経済の主人公の座に再び据えようとするきわめて志しの高い思想だと思います。ネオ・リベラリズムがよしとする市場万能原理主義と三橋貴明さんたちが主張される「経世済民」の思想のどちらが正しいかを最終的に判定する絶対的なものさしというものは、存在しないと思います。つまるところ、それぞれの個人が、どのような視点から何をどのように見ようとしているかにすべてはかかっている、そんなふうにわたしは思います。
NOA says:
11月 30, 2014
価値のお話しについては全く付け加えるところがありません(こんなに同じようなことを考えてるのになんであんなに突っかかってしまったんだろうかと不思議な気分ではありますが…)。
そうやってギリギリのところまで議論を詰めていって、最終的に各人の固有の「価値」が炙り出されたところで(もうそこからは価値観の対立としか言いようがない段階にまで至りついたところで)議論はジ・エンドになるんだと思います(ここはほんとに相対主義)。
ここまで来ると私には、そこで炙り出された「価値」こそがそっくりそのまま「あなた」なんだよ、と言われているような気がしてきます。論理ではなく「自分」が問われているような気がしてしまうのです。三橋先生や藤井先生の唱えられている経世済民の思想からも、その思想の社会的妥当性以上に、三橋先生・藤井先生といった「その人」を実感してしまいます。
その「問われている自分」の感覚というのは、譬えていえば、万が一この宇宙に神さまがいたとして、私が死んだとき、その神さまが「お前のしてきたこと(言ってきたこと)に後ろめたいところはないか?本当にないか?」と、もの凄い迫力で問い詰められているような感覚です。私はどうも日頃からこういうことばっかり考えるクセがあるのですが、一方で思うのは(固有名は控えますが)弱肉強食の至上主義を礼賛している政府の○○会議の議長さんとか、従業員をボロ雑巾のように使い捨てにしている現状を「グローバル化だから」といって恥じない財界の大物経営者さんなどは、一瞬でもそんなことを考えることがあるのかなぁ、ということです。
よく、「彼らも彼らなりの信念や正義に則って発言・行動している」と言う方がおられます。たしかに社会正義レベルではそうなんだろうなと私も思います。しかし、こと神さまレベルの話にかんしては、彼らは100%そんなことは考えていないに違いない、と私は確信しています。彼らは、自分が神さまの前に引っ張り出されて、そこで弁明を強いられるなんてことは万が一にもあり得ない。そう確信しているはずです。言いかえると、神さまなんてものがこの宇宙に存在することは100%ない、という一種の消極的無神論(弱い信念)にしたがって毎日を生きているはずです。
逆いえば、三橋先生etc…のような方々は(ご本人が意識されているか否かは別として)やはりそういう感覚をどこかに強く有しているのではないだろうか・・・とそんな風に感じます。そう考えないと、あの「損」な役回りが理解できないからです。
そろそろコメントを控えようと思っていたのにまた長いコメントを書いてしまいすみません。
ようするに、人間の欲望を一定程度抑制したり、「価値」の問題を完全に「人それぞれ」にしないためにも(共通の落としどころを担保しておくためにも)宗教の役割は決定的だよなぁ(正確にいうと「だった」よなぁ)、ということです。
>ソウルメイトさん
青木先生の本は読んだことがありませんでした。ご紹介ありがとうございます。
さっきAmazonで「なか身検索」してみたのですが、三橋先生の本よりだいぶ難しそうですね…。特に7章8章あたりは歯応えがありそうです。でも、9章の『なぜ「供給側の経済学」は濫用されるのか』など、興味をそそられる見出しもたくさんありますね。
人から紹介していただいた本は基本的に全部読むことにしているので、この本も近いうちに読ませていただこうと思います。
ソウルメイト says:
12月 1, 2014
>NAOさん
突き詰めていった挙げ句のギリギリのところというのは、おっしゃる通り、もはや論理を超えた、その人固有の独自ななにかとしか言いようのないものなんでしょうね。そして、普通、だれもがそのようなギリギリのところまて突き詰めた考え方や生き方をするわけではなく、誰に頼まれた訳でもなくまた、強いられたわけでもなく、そのような本質に迫る考え方や生き方をする人というのは、たぶん、そういう天命のようなものを負っているのではないかと思います。そもそも、自分には、それだけは一ミリたりとも譲れないという価値観があるかどうかといことも重大な問題で、誰もがそういうのっぴきならない価値観を持っているわけでもなさそうだ、とわたしには思えます。そこを譲ったら自分が自分でなくなる、いわば、自己のレゾン・デートルの如き価値観とは、その人が全存在をかけて守ろうとするものでしょうし、不幸にしてそのような価値観か相対立するものであるとすれば、互いの生死をかけた争いを招来することだってあるでしょう。本気で、真剣に何かに命をかけて生きるということは、それくらい過酷でシビアな道なんでしょうね。
さて、わたしは、日本おけるユング心理学の紹介者であり、草分けである河合隼雄先生の数々の著作を通して、ユング派の視点から眺めた人間像というものに親しんで参りました。心理学や禅をはじめとすら伝統的な“行”というものに向かう人というのは、自己を通して人間というものを究明したい、というやむにやまれぬ衝動を持った人か、生きることが、または、存在することそれ自体がのっぴきならない葛藤を生じさせざるを得ないというような人だお思います。苦しく険しい自己究明の旅路を行くにつれ、その人なりの固有の存在意義というべきものが明らかになり、それによって、その人は大安心の境地に達するのだろうと思います。仏教の創始者である釈迦や臨済や道元といった祖師たちはみなそのような人たちだたったんだろうと思います。NAOさんが言及されたように、人間の存在の核心には、“神”や“仏”といった超越的な存在が内蔵されているとユング派では考えて、それを意識的の中心である自我と対比して自己と呼んでいるようです。卑俗で矮小な自分が高貴で崇高な自己の一部であるという感覚は、唯物論的な世界観、人間観の対局をなすものであり、真の意味で自分という存在を宇論的に根付かせることができるものなのだろうと思います。いわゆる浅薄な唯物論的科学ー社会主義やマルクス主義を含めて、そういったものには、人間の深い陰影を平板な二次元に貶めてしまうような危険性があるように思います。
NOA says:
12月 3, 2014
すみません。コメントに気づくのが遅れました。
この数日いろいろ勝手なことを書きすぎたので、この辺でしばらく自制いたします。
たぶん一時期アメリカを賑わせた訴訟騒動が原因なんでしょうけれど、近年深層心理学が完全に下火になってしまったこともあって、ユングや河合隼雄といった学者の重要性は認識しつつも、(簡単なユングの入門書を1冊読んだ以外)今までなんとなくそちらの方面はスルーしておりました。ただ、学生時代に遠藤周作を愛読していたもので、遠藤がたびたびユングに言及しているのは気になっていて、いつか手を出したいなとは思っていました。
ソウルメイトさんの今回のお話から気づかされたのは、晩年の遠藤がいわゆる宗教多元主義の立場に接近していったのは、もっぱら宗教哲学者のJ.ヒックの影響とされていますが、よく考えたらこれってヒック以上に(あるいは以前に)ユングの影響が決定的ですよね。今まであんまりそのことに気づきませんでした。
絶対的な何かを求めても、それをいざ言葉や思想にしようとすると、個々の文化や言語に応じた具体的な形をとらざるを得ない。つまりは相対的なものにならざるを得ない。でも、そんなことを安易に認めていたら、たちの悪い相対主義に堕してしまう。そこで、自分の歩いているこの道こそが絶対に通じる道なんだと、どこかで言わざるを得なくなる。でも、その道はやっぱりどう見ても周りの人たちが歩いているのと同じ具体的な道の一つにすぎない。こんな具体的な道を絶対だと強弁することはやっぱりできない。でも・・・。
という無限ループを、単なる理屈で分かったように言うのか、緊張感をもって言うことができるのかが、最後に残った勝負であるように思いました。