4月11日の記事
「戦後日本の論理的帰結、またはシンガポールへの道」
に関連して、
玉田泰さんから、こんな質問が寄せられました。
「安倍でもわかる保守思想入門」読了しました。
福田恆存氏を知るきっかけを得られたこと、
昔から好きだったニーチェが保守だと知ったこと、
保守とは何かを掘り下げられたことなど、有益な読書でした。
ですが、ただ一か所、理解できない所がありました。
「先入観を『保守』すべき」というバークからの引用文です。
これは先入観に捕らわれず事物を見ようとする僕の姿勢とは相容れない考え方でしょうか?
先生、適菜さんの言わんとする意味合いを、僕にも分かるように説明して頂けないでしょうか。
お手数だとは思いますが、宜しくお願い致します。
(人名に関する誤記を修正)
・・・適菜さんが挙げているのは
「フランス革命の省察」に登場する有名なくだり。
ただし、これを説明するには
「先入観」という言葉が
バークの原文では何だったのかを踏まえる必要があります。
「保守思想入門」25ページにあるとおり
原語はプレジュディス(prejudice)。
辞書でこの言葉を引くと
偏見、先入観
と出ていますので
「先入観」という訳語が間違いというわけではありません。
この訳語を使ったのは中公クラシックス版ですが
岩波文庫版では「偏見」が使われていました。
しかし!
これまでのいかなる訳より読みやすいと定評のある
わが「新訳 フランス革命の省察」では
この言葉を「固定観念」としました。
なぜか。
ここで言う prejudice とは
伝統や慣習を大事にする姿勢、
もっと具体的に言えば
教会
王室
貴族制度
などを尊重する姿勢を指しているのです。
フランス革命では、このような姿勢が
古くさい迷信とか、
非合理的なナンセンスとか、
人間の平等という真理を否定する間違った考え
として否定されました。
けれどもバークはこれに異を唱える。
長いこと、社会的に受け入れられてきた発想には
よしんば非合理的に見えようと
深い叡智がこもっているのではないか?
だからこそ人々は
これらの発想を大事にしてきたのではないか?
この点を考えてみようともせず
たんに古いとか、
非合理的だとかいう理由で
頭ごなしに否定することが
社会を良くする結果を生むとは信じがたい。
現にフランス革命は、しょうもない大混乱を引き起こしているではないか!!
で、フランス人と違って、
イギリス人は prejudice を大事にしていると説いたのです。
・・・以上を踏まえると
「先入観」や「偏見」は
いかに辞書に出ていようが、
この場合の prejudice の訳語としてはふさわしくありません。
「先入観」では
個人レベルで物を考えるときの問題、という感じになってしまう。
しかしここでの prejudice は、社会的に確立された発想を指しています。
同様、「偏見」では
何かをことさら見下す態度、という感じです。
しかしここでの prejudice は、
伝統、慣習、教会、王室、貴族制度といったものを
ことさら大事にする姿勢を指しているのですよ。
そして prejudice とは
pre (事前に)と
judice (判断する)が結びついた言葉。
よって、
昔から社会的に確立されている価値判断
のニュアンスを出すのが
訳語として最も正しいと考え、
「固定観念」としたわけです。
(↓)最高の読みやすさと的確さを誇る新訳で、バークの精髄をどうぞ!
ならば固定観念を大事にするとは
具体的にどういうことであるべきか、
それについてはまた次回。
ではでは♬(^_^)♬
8 comments
GUY FAWKES says:
5月 10, 2017
>「先入観」では個人レベルで物を考えるときの問題、という感じになってしまう。しかしここでの prejudice は、社会的に確立された発想を指しています。
>そして prejudice とはpre (事前に)とjudice (判断する)が結びついた言葉。よって、昔から社会的に確立されている価値判断のニュアンスを出すのが訳語として最も正しいと考え、「固定観念」としたわけです。
「prejudice(プレジュディス)」には「pre(予めの)-justice(正義)」とも聞こえるような感慨を覚えました。
尤も、今回の佐藤先生が仰る様な事を説くと「お前は固定観念に縛られた愚者だ!もっと幅広い視野を持つ事が肝要なのだ!」
…とか、曲解してご高説垂れる御仁が現れるのですよねぇ(苦笑)
具体的な解説については次回の様ですので、刮目して待機させていただきます。
メイ says:
5月 10, 2017
怒涛のゴールデンウィークが終わり、ちょっと一息ついております(笑)。
「フランス革命の省察」、関心がありながらお読みしていないのですが、読むなら佐藤さん訳ですね!
外国の本は、訳者の方次第で、判りやすさが全然違いますよね。
話しが少しズレてしまうかもしれませんが・・小さい頃「ベルサイユのばら」という漫画を読みました。
今でも作品として素晴らしいとは思いますし、作者の方やファンの方がいらしたら、とても申し訳ない感想なのですが、「革命」というものを美化しておられるかな、と年齢を重ねるにつれて思うようになりまして・・。作者の方も思う所がおありなのか、近年「ベルばら」の続編を数冊出され、登場人物に革命を否定するようなセリフを言わせ、悲惨な部分をクローズアップしておられる印象です。
「ベルばら」だけではなく、フランス革命がどういうものであったのか、様々な伝記や映画、ドラマ、アニメ、歴史解釈本などを通じて肯定的なイメージが強いように感じますが、その事自体も、僭越ながら問題があるように感じております。
大抵は、「貴族王族という特権階級が国民を顧みなかったことが悪いのだ」というストーリーですが、フランスの経済が苦しくなったのは王妃の贅沢ではなく、悪天候が続き飢饉がおきて食料不足が一因だと、本やテレビで触れる事が増えてきた気もします。
無実の誰かに罪を着せる、というやり方は、本当に間違っているし、危険で、真実を見えなくさせるものですね・・。
悪条件が重なる事を「チャンス」とみる人間もいるらしく、一部?の啓蒙思想家等は、巧みな弁舌で人心を誘導したように思えます。今も同じ事が起きている。これは、主観がかなり入った私の考えですが・・
国民に権利意識ばかりを「啓蒙」し、「自由な存在である」と訴え、階級闘争を煽り、「特権階級が悪いのだ」と「被害者意識」を植えつけ・・言いくるめられた国民も自分たち「善良な被害者」と思い、貴族・王族は「加害者で悪い存在」と思うようになり、しかも自分たちには「権利」というものがあるらしい、となれば、礼儀も優しさも身をわきまえる事も失ってしまうのかもしれません。相手が「加害者」ならどんな危害を加えても許されるような心理になるのかもしれませんね。
こうなると、自分たちの興奮をコントロールできず、ブレーキがかからなくなってしまうのではないでしょうか?
アントワネットが外国人であった事も、煽りやすかった要因かもしれませんが、無実の美しい人を殺しても平気になってしまうなんて、本当に酷い、あってはならない事ですね・・。
革命というのは、人間性まで変えてしまう大変に危険なものだと思うし、許せない事です。
今の我が国で、国内に住む人同士が憎み合う空気を作る人・民族間の対立を煽る人も決して信用できません。
「官僚組織の打破!」とか「日銀貴族」とか、変な言葉を使う方々も現時点では信用できない。
長くなり過ぎてしまい、すみません・・何か本音を言い過ぎて、恥ずかしいです・・。
SATOKENJI says:
5月 10, 2017
「ベルサイユのばら」は、ご存じ、宝塚を代表するヒット作でもあります。
しかるに宝塚版は大きく分けて、近衛隊長オスカルを中心に据えたバージョンと、
王妃マリー・アントワネットを中心に据えたバージョンとがあるのですが、
メッセージがみごとに正反対!
オスカル編は「革命万歳」が前面に押し出され、
アントワネット編は「ギロチンかわいそう」が前面に押し出されていました。
革命をめぐるタテマエとホンネという感じです。
メイ says:
5月 13, 2017
ああ、判ります。成程です。
原作は革命のタテマエとホンネが、やや整合性を欠くような感もあるので、それぞれを象徴する二人の女性のストーリーを分けた方が、スッキリまとまるのかもしれないですね。
でも「革命万歳」だけの話にせず、「革命の行きつく先って結局?」という疑問を少し残したところが、多少すっきりしていなくても、作品の複雑性や魅力になって、長く残った理由の一つかも、しれないですね・・。
せい says:
5月 10, 2017
映画フルメタルジャケットの冒頭でハートマン軍曹が、神や聖母への敬意がない奴はアカの手先と罵ってましたね。
罵倒文句自体、神への敬意が感じられませんが(笑)。固定観念に囚われないのはその文化的背景からも逸脱するので論外なのでしょう。
玉田泰 says:
5月 11, 2017
質問コメントに先生からのコメントが無かったので、愚問だったかと少々落胆していましたが、ご返答ありがとうございます。
お陰様で先生の新訳版を読んだ際に、違和感を感じなかった謎も腑に落ちました。
それにしても、単語一つにもそこまで考え抜かれるからこその完成度なのですね。勿体ないので再読します。
半ライス大盛 says:
5月 12, 2017
『一世帶を構ふるがわろきなり。』
と言うのは、葉隠れの、聞書第一の59番に
書かれいる一文です。
これを三島由紀夫先生は、
『きまった、固定的な考えを持つことが悪いのである。』と現代語訳しました。
1世帯を構える事が、固定的な考えを持つ事?
と無理があるように思ったのですが、それに続く葉隠れの文章が、
『只これも非也非也と思ふて、何としたらば道に叶ふべきやと一生採促し、
心を守て打ち置く事なく、修行仕るべきなり。この内に即ち道はあるなりと。』
と続くので、なるほど!と納得し、安心してしまいました。
しかし、ずっと引っかかっており、今回の佐藤先生の固定観念の話を聞いて
もう一度調べてみる事にしました。すると、葉隠れの中の、聞書第二の313番にも同様に、
『一世帶を構ふるがわろきなり。』
が出ている事を発見しました。ここで言う世帯を構えるというのは、
(ここは、私の解釈)
武士が世帯を構えて、藩にご奉公するにあたって、身の上
つつがなく出来て、これで良しと一安心している様を
悪き事なりと説いているのに気づきました。
これは、固定した考えにとらわれている事が悪いというのではなく
自分はこれで良いと慢心する心を戒めているのだと思います。
(私の解釈ですが・・・)
固定観念の打破!と言うと、短絡的に『良い事』と思い込んでしまって
いるので、あの三島由紀夫先生もこのような訳を当ててしまったのでは
ないか?とも思います。
三島由紀夫先生にとって、固定観念とは
『今の若い人たちは戦時中の生活について、暗い固定観念の虜(とりこ)になりがちである』
と言う意味から、固定観念は打破すべき悪しき事のように感じていたのかもしれません。
つまり、固定観念と言えば、打破すべきものという『固定観念』が一般化していると
いうことですね!
長文申し訳ございません!
SATOKENJI says:
5月 12, 2017
『今の若い人たちは戦時中の生活について、暗い固定観念の虜(とりこ)になりがちである』
「なぜそうなのか」を考えていたら、
三島先生もあのような最期を遂げずに済んだかも知れません。
それはそうと、5月26日公開の映画「美しい星」は面白いですよ。
1962年に三島が発表したSF風の小説を、現代にあわせて脚色したもの。
先日、試写で観て感心しました。