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「20世紀ノスタルジア」について

平松禎史さんが

ツイッターでこんなコメントをして下さいました。

 

この映画公開当時観て衝撃を受けました。

「思い(観念)」だけで映画になる! という衝撃。

そしてカメラを持ってくるくる回る映像がすばらしくて

「中華一番」のエンディングで真似してみました。

カメラを持つ必要がないのがアニメならでは。

 

「カメラを持ってくるくる回る映像」とは

広末涼子さんが清洲橋の上で

ビデオカメラで自撮りしながら歌い踊る

「宇宙人のキミへ」というミュージカル・シーン(ホント!)を指しています。

 

平松さんの指摘どおり

ここの映像はダイナミックで面白いですよ。

ただし、広末さんの歌はアイドル基準でもイマイチです。

 

ついでにこの場面、

相手役の圓島努さんの歌も入っており、

こちらはいかなる基準でもイマイチでした。

 

それはともかく。

 

「思い(観念)」だけで映画になる!

とは、まさに名言。

「20世紀ノスタルジア」は

論理的な整合性とか、物語のリアリティといった

通常、映画に必要とされるものをすべて投げ捨てて、

原将人監督の観念(+広末涼子の人気)のみで成立している作品なのです。

 

その意味で

「思い(観念)」だけで映画になる!

というのは

「思い(観念)」の他には何もない!

ということでもあるのですが、

今にして思えば

この非現実性こそが、1990年代半ばの日本の本質だったのではないでしょうか。

 

「20世紀ノスタルジア」が公開されたのは1997年夏。

くしくもこの夏は

「もののけ姫」がメガヒットとなる一方、

「ジ・エンド・オブ・エヴァンゲリオン」という

やはり観念だけで成立しているような映画も公開されました。

 

しかるに1990年代半ばの日本は

バブルが崩壊したうえ、

阪神大震災や、地下鉄サリン事件などにも見舞われていたものの

繁栄の余韻がまだ残っていた時期。

 

飛行機にたとえれば

エンジンは止まってしまったが

まだ墜落は始まっていないという感じ。

 

この不安定な浮遊感

非現実的な観念性という形で

作品に反映された気がします。

 

時代の基盤そのものが崩れようとしている予感。

しかし、具体的な崩壊はまだ始まっていない。

未だ見えざる崩壊を、どうにか見ようとする姿勢が

非現実的な観念性となったのではないか。

 

もし現在、

「20世紀ノスタルジア」がつくられていたら

ヒロインの杏はビデオカメラを持って

東北の被災地の光景とか

シールズのデモの様子とかを

一発、撮っていたに違いない。

 

現実性や具体性が備わったかわり、

パターン化された「社会的問題意識」の枠に収まってしまい

ありがちな内容になってしまったのでは、ということです。

 

問題意識が対象を見つけられないまま

観念的に空回りする。

今、振りかえってみると

それはそれで、時代の貴重な記録だと思いますね。

 

ちなみに映画が公開されて数ヶ月後の1997年11月、

三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券があいついで破綻しました。

他方、日本の労働者の実質賃金

この年を最後に下がり始める。

墜落が始まったのです。

 

繁栄の余韻が残っていた最後の夏の思い出。

それが「20世紀ノスタルジア」なのです。

そしてこの思い出に逃げ込もうとするのが

昨今の映画に見られる20世紀ノスタルジア。

 

物事はこうやってつながるのですね。

ではでは♬(^_^)♬