昨日の記事
「入水こそ日本沈没だったのか?! または西部先生のクライテリオンを問う」
では、
この先、介護や看護で周囲に迷惑をかけたくない
として死を選んだはずの西部邁先生が
知り合い二人に自殺を幇助させていた
ことを取り上げました。
介護や看護は、大変でしょうが犯罪ではありません。
しかるに自殺幇助は
最大で7年の懲役または禁錮となる
れっきとした犯罪ですぞ。
周囲を迷惑をかけずに世を去る方法とは
知人を犯罪者にすることだったのか?!
やはり認知的不協和でしょうねえ、これは。
・・・どう見てもこの話、
西部先生のクライテリオン(価値基準)が根底から狂っている
としか思えないのですが、
そこはそれ、
ジャップドットコムのわが国において
クライテリオンが根底から狂っているとしか思えないのは
保守思想家だけではありません。
“角界の常識”に薬なし! 人命よりも女人禁制を優先 市長倒れ…救命女性に「土俵から下りて」
(産経デジタル、4月6日配信)
4月4日、京都府舞鶴市は舞鶴文化公園体育館で
大相撲の春巡業が行われました。
ところがその際、土俵上で挨拶していた
多々見良三市長(67)が突然倒れます。
クモ膜下出血とのこと。
しかるに・・・
不測の事態を受けて、女性たちが土俵に上がり必死に救護活動を行ったが、
2度驚かされたのが、場内に流れた「女性は土俵から下りて」という仰天アナウンス。
状況を把握し適切な対応を取れない角界の体質に、もはや付ける薬はない。
「女性の方は土俵から下りてください!」
観客席から複数の女性を含む警察官、スタッフらが土俵上に駆け寄り、
女性らが心臓マッサージなどを行うその最中、行司らがマイクで複数回、注意した。
このアナウンスに場内は騒然となって批判の声が上がり、その後、ネットでも大炎上した。
救護活動を行った女性たちは
看護師資格を持っていました。
多々見市長、
かつて舞鶴共済病院の院長を務めていたため
そこの看護師がたくさん見に来ていたのだそうです。
日本相撲協会の八角理事長は、
4日の深夜にコメントを発表。
いわく。
とっさの応急処置をしてくださった女性の方々に深く感謝申し上げます。
応急処置の最中、場内アナウンスを担当していた行司が
「女性は土俵から下りてください」と複数回アナウンスを行いました。
行司が動転して呼びかけたものでしたが、人命にかかわる状況には不適切な対応でした。
深くおわび申し上げます。
しかし、騒ぎは収まらず
ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなど海外メディアでも
日本の男尊女卑を示すものというニュアンスで報道されます。
5日には興行担当の松ヶ根親方が帰京して
理事長らに敬意を報告。
協会の尾車事業部長は
観客から「女性を上げていいのか」と疑問視する声が出たため、若手行司が慌ててアナウンスした
と説明しました。
ただし
どんな経緯であろうと、言い訳はきかない。
人命第一は当たり前のこと。それと土俵に女性が上がれないことは次元が違う話。
とも付け足したそうです。
・・・何というか
いろいろみっともない話ですが
私が最も情けなく思うのは
行司が動転して呼びかけた
とか
観客から「女性を上げていいのか」と疑問視する声が出たため、若手行司が慌ててアナウンスした
といった弁明を
協会が行っていること。
つまりですな。
かりに行司が
相撲において土俵は神聖なものである。
ゆえに女人禁制のしきたりは
死者が出ようと貫徹されねばならない。
神聖な土俵で倒れる市長のほうが悪い!
という確固たる信念を持っており、
そのような行動が社会的な批判を呼ぶことを覚悟のうえで
女性看護師たちを追い払ったのであれば
それはそれで
少なくとも一つの見識、
ないし価値基準(クライテリオン)であることは
否定できないと思うのですよ。
しかし相撲協会の弁明のどこに
そのような頑迷なまでの剛毅さがあるか。
どこにもない!!
ならば
しきたりが何であろうと
人命がかかっているときには救命が最優先だ、
文句のある客は前に出ろ!
という臨機応変のクライテリオンはあったか。
これまた、どこにもない!!
要するにこの行司、
状況を把握し適切に対応する能力がないのは当たり前として、
しきたりを主体的に守る意志も持っていないのですよ。
主観的にはしきたりを守ろうとしているつもりで
思考停止をきたしたまま
惰性で動いているだけ。
だから市長が倒れるような非常事態が起きると
普段から何も考えていない者にふさわしく
どうすればいいのか分からなくなってしまい
最低最悪の無責任な振る舞いを見せた次第。
ついでに相撲協会が
観客から「女性を上げていいのか」と疑問視する声が出たため
と、責任を観客になすりつけるようなコメントをしたことも
この際、よく覚えておきましょう。
伝統を守っているつもりで
じつは主体性がないまま惰性で動いているだけの者に
いざという時、責任など取れるはずはない。
おまけに主体性がない以上、
どういう振る舞いがみっともないかということも自覚できない。
よって、なりふり構わずの無責任ロードを爆走するハメとなるのです。
その意味で今回の行司、
および相撲協会の対応は
保守(派)が堕落すると、いかなる見苦しいことになるかを
みごとに体現していると言えるでしょう。
わが国の国技とされる相撲も(※)、
今や外国人力士だらけ。
国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去ったということかも知れませんが
ならばいっそのこと、
国技のステータスを返上して出直したほうがいいんじゃないですかね?
(※)ただし法令でそう定められているわけではありません。
ちなみに大相撲春巡業、
6日には兵庫県宝塚市で行われましたが
同市の市長・中川智子さんは女性。
そのせいで多々見市長と異なり、
土俵上であいさつをすることが許されず
土俵の下から
私は女性市長ですが人間です。
女性であるという理由で市長でありながら土俵の上であいさつができない。悔しいです。つらいです。
と抗議しました。
しかるに兵庫県宝塚市と言えば
かの宝塚歌劇団のホームグラウンド。
中川市長に提案したいのですが
次に大相撲巡業が来るときは
歌劇団の協力のもと
男装して来場されてはいかがでしょう?
宝塚で男役にケチをつけたら、観客の大ヒンシュクを買うこと確実。
トップスターよろしく
背中に巨大な羽根をつけて、ぜひ土俵入りして下さい!!
あ、そうそう。
多々見市長、命に別条はないものの
一ヶ月の入院・加療が必要とのことでした。
これも看護師のみなさんのおかげですね。
(↓)クライテリオン矯正のためにも、赤坂に集うべし!
(↓)そしてこの4冊を読むべし!
ではでは♬(^_^)♬
4 comments
拓三 says:
4月 8, 2018
「神聖な土俵に女性は上がらないでください」は根本的に間違い。
「神聖な土俵に一般男性は上がらないでください」は正解。
女性に対しては
「低俗な土俵に女性は下らない(上がらない)でください」が正解。
相撲は神に捧げるまつりごと。
神は未来、つまり子孫、その子を作り出すのは女性。
本来相撲は女性子供に捧げているものである事により土俵に神(女性子供)をくだらせないのが本来の意味。どうこじらせて男尊女卑の理屈になったかはこれまでのヘタレ男どもの「ホラ話」の積み重ねによるもの。
女性が上がりたければ上げるのが筋。又上がらなければならない状況で上がらせないのは神への冒涜。ただ神(女性子供)にも解って戴きたいのは男が土俵に上がる為には相当な努力が必要である事….そうでもないかw
通りすがり says:
4月 8, 2018
「(保守派の)堕落」というのはポイントですね。
保守するというのは結局なんなのか。状況をなるべくいじることなく、状況を上手くまとめて、安定した状態にすることである。
例えば爆発しそうな原発は、なるべく爆発しないようするなど。
では思想とはなにか。
人々の思い考えることである。
確か誰かが「戦争に思想はない」と言っていた気がします。
戦争とは状況判断と行動であり、鉄砲を打つのに「エドマンド・バークは…」などとは普通考えません。
つまり、突発的・緊急的な状況においても物事をきちんと収められるようにするのが保守派の「すること」であり、
保守派が「考える」というのは、その合間にやっておればよい、ということになります。
もちろん、考えのない人間が突発的な状況におかれてまともな動きが出来るはずがありませんから、「考える」ことも重要ですが、
考えてばかりで、今回のような状況に対応できないのは、保守派と呼べるか怪しいところです。
ここが保守派の堕落ということですね。
保守派が考えてばかりで、突発的な状況に対応できないのであれば、
それは社会から「保守の無能」を指摘されても仕方ない、ということになります。
今回の件を見るにつけ、保守とは単なる現状維持することやしきたりを守ることではない、ということを考える材料になると思います。
行動には常に思考が伴い、思考の正当性(正統性ではない)を行動によって世間に常に確かめていくようなことが、
保守派に求められていると思います。
それが出来なければ、保守派と呼ぶことは難しいでしょう。
豆腐メンタル says:
4月 8, 2018
思考停止と惰性の産物かもしれませんが先生に完全に同意します。笑
>ゆえに女人禁制のしきたりは
>死者が出ようと貫徹されねばならない。
このニュースに触れた時に考えたのはまさにココでした。
相撲の伝統(とやら)が本物ならば、命を賭した女人禁制であるはず。
いざという時に狼狽えるようでは偽物としか言えないではありませんか。
ちなみに、周りの人たちにそんな私の話を聞いてもらったところ、突飛に響くのか共感は得られませんでした。まぁそんなものですね。
柔道にも似たところがあり、観戦が面白いです。
というのも、精神修練のための「道」という日本的側面と、勝敗や結果を重視する「スポーツ」という普遍的側面とのせめぎ合いが柔道を奥深く面白くしているためです。まるで理想と現実。
この場合観客が観ているのは、実は勝敗でなく姿勢だったりします。それこそがクライテリオンと考えます。
玉田泰 says:
5月 6, 2018
自らのクライテリオンを持たない者は、生き様が無様になる典型例ですね(苦笑)。