12月13日の記事
「戦争が醜いのは真実が時に醜いからだ」
では、
戦争の恐ろしさとは
取り返しのつかない形で真実に直面することの怖さではないか
という点を提起しました。
人間の身体は、破壊しようと思えば簡単に破壊できる。
長年かかって築いたものが、一瞬にして失われることがある。
弱い者は何をされても耐えるしかない。
逆に、強ければ何をしてもいい。
結局のところ、生死を分かつものは往々にして偶然である。
これらはすべて、
この世の真実の一部です。
むろん、全部ではありませんよ。
ただし、そういう真実も存在することは否定できない。
そして戦争において、
このような真実が突きつけられたら
もはや逃げ道はありません。
AND SO IT GOES (そういうものなんだよ)というやつです。
逆に戦争が、
人間や世界のあり方をめぐる崇高な真実、
あるいは美しい真実を突きつけてくることもあるでしょう。
ダグラス・マッカーサーも
死の危険を前にして、軍人はしばしば聖者のような表情を見せる
と語ったくらいです。
はたまた戦争が、
まったく凡庸な真実しか突きつけてこないことだって
十分にありえます。
太平洋戦争中の日本軍にだって
命令で中国大陸をあちこち移動しているうちに
一度も戦闘をすることなく敗戦を迎えた
なんて部隊が実在しますからね。
つまり戦争とは、
スタンリー・キューブリック監督の名言にならえば
安直な道徳的・政治的解決を受けつけないものであり、
ゆえに賛成も反対もできないものにほかならない。
それはある意味、ただ起こるものなのです。
だとしても。
戦争の恐ろしさが
〈真実に直面すること〉の恐ろしさだとすれば
「戦争はイヤ」という心情は
じつのところ、「真実に直面したくない」と叫んでいることになる。
それはまあ、
詩人のT・S・エリオットが書いたとおり
あまり多くの現実に耐えられないのが人間というものですから
この心情も分からなくはない。
しかしですな。
真実に直面したくないという心情が
「反戦」の大義名分のもと絶対化されるのは
それはそれで危険というか、
醜い結果をもたらすのではないか。
20世紀前半のフランスを代表する劇作家にして、
優秀な外交官でもあったジャン・ジロドゥは
戯曲「トロイ戦争は起こらないだろう」で、
この点を痛烈にえぐっています。
どうぞ。
母親がみんな子供の右の人差し指を切ったら
(注:弓矢をちゃんと扱えないようにするため)
世界中の兵隊は人差し指なしで戦争するようになるさ。
右足を切ったら、兵隊は一本足ばかりになる。
目をつぶしたら、兵隊は盲ばかりになる。
それでも兵隊はなくなりはしない。
白兵戦になると、(注:目が見えないため)手探りで
相手の股の付け根の鎧の隙間や、
のどを探り合う。
(鈴木力衛・寺川博訳。表記を一部変更)
ちなみに上記の台詞を抜粋してツイートしたところ、
意味が分かりません
という趣旨の返事が来ました。
この人の場合、
意味が分からないのではなく
意味を分かりたくない
が真意だと思われたので、
もう少しお考えになるといいでしょう
と返答したのですが、
本ブログ読者のみなさまは
この程度の真実にたじろぎなどしないはずですので、
きっちり解説いたします。
要するにジロドゥは、こう喝破しているのですよ。
1)反戦を盲目的に信奉することも、戦争と同じぐらい残虐で破壊的なものとなりうる。
2)そしてそれは、戦争防止の役にはまったく立たない。
考えてみれば、当たり前ですね。
「戦争はイヤ」の名のもと、戦争と同じぐらい残虐なことをやらかして
戦争が防げたらお目にかかってやる、ってなものです。
しかるに。
過去70年間、わが国ではまさに
「戦争はイヤ」の心情が幅をきかせてきました。
もし日本人が
戦争を憎む心情に酔うあまり
子供の右の人差し指や
さらに片方の足を切ったり、
はては目をつぶしたりするような真似を
物理的にでなくとも、精神的にやってきたとしたらどうしますか?
「戦争はイヤ」の行き着く果ては
未来の世代の去勢かも知れないのです。
・・・なお、
さっきご紹介した「意味が分かりません」の人からは
もう少しお考えになるといいでしょうというツイートにたいし、
こんな趣旨の返事がありました。
どうして私が考えなければいけないんですか!
真実に直面できない者は
自分の思考停止をひけらかすにいたる。
いや、貴重な教訓です。
感謝しなければなりませんね。
ではでは♬(^_^)♬
11 comments
ジャクハイ says:
12月 15, 2016
非常に面白く大変勉強になりました。記事を読んでいて思い出したものがあります。
闇は寛大だ。
一つ、闇はすべてを隠してくれる。
われわれの真の顔は、この皮膚の下、闇のなかにある。
われわれの真の心は、さらにその奥の影のなかにある。
闇はひそかな真実を守るばかりか、ほかの人々の醜い真実もわれわれの目から隠す。
二つ、闇は心地よい錯覚をつくりだす。
三つ、闇は光をもたらす。
(出典 スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐)
自身を含め人間の持つダークサイド(醜い真実)に触れたくないと目を背ける。しかしそのこと事態が既にダークサイドへの一歩を踏みだしている。そして行き着く先は……
とはいえダークサイドに触れているばかりでも精神衛生上宜しくないのである程度の闇はやはり必要。
善と悪は表裏一体といいますが闇で隠した方が良い場合もある。バランス感覚が重要なのだと改めて感じました。
Matom says:
12月 15, 2016
盲目的な厭戦と若者の去勢、これらがこのような形で繋がるとは。
先生の深いご造詣と洞察力には驚嘆するばかりです。
先生も想定の上で書かれたと思うのですが、スタンリー・キューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』はまさにこれを主題として描かれた作品だと思うのです。
この作品が上映されたのは71年ですが、本作が道徳上の理由から上映禁止となる反面、ヒットを記録したのは、当時はまだ道徳や倫理という名のもとで一面的な(または盲目的な)価値観の押付けが行われているという意識が広くあったのではないかということを思わせます。
もし、2016年にこの映画が公開されたとしてもヒットはしないのでしょう。
現代においてヒットするのは『君の名は。』なのですね。
なぜ2016年にこの映画が大ヒットしたのか、先生の分析を是非とも拝聴したいです。
SATOKENJI says:
12月 15, 2016
「時計じかけのオレンジ」は私も大好きです。
(というか、キューブリック映画はすべて大好きですが)
ちなみに「時計じかけのオレンジ」は1973年から2000年前後まで、
イギリスでは上映およびビデオ発売がなされませんでしたが、
これは検閲によって禁じられたのではなく、
キューブリック本人の要望によるものです。
理由はハッキリしないものの
映画が物議をかもすことで、とばっちりが来るのを嫌ったのではないか、と推測されています。
キューブリックはアメリカ人ですが、1960年代以後はイギリスで暮らしていましたからね。
GUY FAWKES says:
12月 15, 2016
>この人の場合、意味が分からないのではなく意味を分かりたくないが真意だと思われたので、
もう少しお考えになるといいでしょうと返答したのですが、
>・・・なお、さっきご紹介した「意味が分かりません」の人からは
もう少しお考えになるといいでしょうというツイートにたいし、こんな趣旨の返事がありました。
どうして私が考えなければいけないんですか!
「第三次世界大戦はどう戦われるか、わたしにはわかりません。しかし、第四次大戦ならわかります。
石と棒を使って戦われることでしょう。」–アルベルト・アインシュタイン
とまれ、件の御仁は何を以って自信ありげに佐藤先生に食ってかかったのでしょうかね?
尤も、この手の思考停止と責任転嫁の主体性皆無さは保守派にも見られることは否定できませんが…
>真実に直面できない者は自分の思考停止をひけらかすにいたる。いや、貴重な教訓です。感謝しなければなりませんね。
おぉ怖い、それにしても世の中には色々な意味で命知らずなお方がいらっしゃるものです(苦笑)
>もし日本人が戦争を憎む心情に酔うあまり子供の右の人差し指やさらに片方の足を切ったり、
はては目をつぶしたりするような真似を物理的にでなくとも、精神的にやってきたとしたらどうしますか?
>「戦争はイヤ」の行き着く果ては未来の世代の去勢かも知れないのです。
きっと「自分達の頃はもっと辛かった、今の若い奴らは特に男に意気地がないから」という「正論」を語られますよ。
そういえば私的偏愛書の一冊である『バラバラ殺人の文明論』にも「上の世代による未来世代の去勢」とは
宮崎吾朗監督作品「ゲド戦記」の分析でもありましたね。
なお、同作品はあの短編小説「オメラスから歩み去る人々」の著者でもあるアーシュラ・ル=グウィン女史による作品。
更に興味深いのは映画版「ゲド戦記」でアレンことレバンネンを演じたのはV6の岡田准一さん。
では、昨今彼が当たり役として大ヒットを飛ばした作品は…?そう、百田尚樹さん原作の『永遠の0』
そして現在は出光興産創業者・出光佐三をモデルとした『海賊と呼ばれた男』が公開中です。
はてさて、これは一体何を意味するのでしょうか?(微笑)
SATOKENJI says:
12月 15, 2016
あれは食ってかかるというより
自分の世界観が崩壊しかかった者の魂の叫び
と形容すべきものでしょう。
tinman says:
12月 15, 2016
横から失礼します。
マトリックスから出たくないのでしょうね。
「ゴーストのない人形は悲しいもんだぜ、
特に赤い血の流れてるやつはな・・・」(攻殻機動隊)
攻殻機動隊でも、偽の記憶を植え付けられ操られていたことを
受け入れられない人物が出てきます。
TOMAS says:
12月 15, 2016
「戦争はイヤ」
此は恐らく総体としての日本人の本音なのでしょう。戦後70年其を続けてきたというのは無視出来ない重みです。哲学的に見れば、時間というのは残酷なものです。そう、私達は時間について語るのは既に遅すぎる。これからは私たちは空間について語る他ないのです。此が時間というものが私達に与えた残酷な結果です。
70年間、憲法をはじめとする日本国内のありとあらゆる矛盾の大部分は戦後日本人の心証でしょう。残念ながら、その心証が日本を殺したのです。勿論、どの分野でも地道にコツコツやるしかないのが現実ですが、「地道にコツコツ」というある種の使命感に陶酔しているのが私が考えるエリートを含めた大部分の戦後日本人です。戦後日本は、論理的に解決できない問題です。いや、戦後日本人が意図的に、論理的に解決できないようにしてしまったと言った方が正しいかもしれません。
私は現代という時代に生まれてきてしまった超エリートと右も左もわからない愚者だけに同情します。自己欺瞞に基づく戦後日本人の野蛮な強制力のもと、「生まれてきてしまった」のです。こうなってしまっては己の理性と信仰に基づき、静かに生を終えていくというのが正しい国民のあり方ではないでしょうか。
ムードン says:
12月 15, 2016
佐藤健志様、こんにちは、
>本ブログ読者のみなさまは
>この程度の真実にたじろぎなどしないはず…
ありがとうございます。
まあね。
毎回ブログと濃いコメントを拝読して楽しんでおります。
これから引き続きもよろしく!
カインズ says:
12月 15, 2016
「未来の世代の去勢」、金嬉老事件について三島由紀夫が「われわれはかすり傷も負いたくないという時代に生きている」、「日本もいつかあのような事件の非常に拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と同じ身の上になるかもしれないのである。」と説いたことを思い出しました。風呂に入っているときは無防備な老婆でしかない金嬉老を、人質に成人男性もいながらふん縛ってやろうとも思わないのですから、まさに去勢です。また、「国のために戦う意思があるか」を問う国際調査で「はい」と答えた人の割合も低い。こららのことから、大きくは戦争、小さきは人質事件といった危機において、日本人が当事者意識を持っていないのは確かだろうと思います。
しかし、だからといって日本人が戦争嫌いかと言われると、戦争を描いたアニメやマンガ、そして映画が日本で好まれていることを考えると首を傾げます。去勢はされたけど、行為を描いた作品は好き。まるで、AVでは勃起するけど、実戦では勃起しないというEDの症例のようです。こちらなら、まだバイアグラ等で治療できますね。日本人は去勢されたのか、それともAV好きをこじらせただけなのか。バイアグラに相当するような事件が日本で起こったとき、日本人が勃ち、もとい立ち上がれればいいのですが。
フルート says:
12月 16, 2016
私は全然当該の戯曲のことも、「意味が分かりません」という趣旨のツイートをされた方のこともほとんど知ることはできていないのですが、逆にこんな風に知識も正確な情報も全然持ってない立場であるのを良いことに考えちゃえば、次のような意見(というか意見になる前のただの反応?)もありえるのでは..的なスタンスでちょっと書かせて下さい。。
私は最初こそ、このツイートの方から「どうして私が考えなければいけないんですか!」という趣旨の返答があったということに、「?」ってなりましたし、私の立場とこの方の立場がどれ位違ったり近かったりするのかも判らないのですが、次のように勝手にこちらサイド(←知識・情報ともに限られてる)からのみ解釈しちゃえばこの方の伝えたかったことも分からなくはないかも。。とか思っちゃいました。。
佐藤先生が選んで(抜粋して)書いたジロドゥの文のツイートには私からすると怖いところが複数個あって、やっぱり1個目はたぶん典型的な「戦争」の情景なんてとっくに超えちゃってるこの事態の視覚的な怖さで、戦争にも関係する真実を直視することへの怖さは私の場合は3番目ぐらいの怖さ、そして2番目ぐらいに感じる怖さのぬしはこの母親たちでした。右手の人指し指を切られ右足を切られて両目をつぶされても、全員白兵戦に出て行って手探りで相手ののどなどを探り合うとされる世界中の兵隊たちのすがたもすごいですけど、そもそもこの事態に至る前の段階の後の世界中の兵隊(子供)たちに母親が行ったとされる仕打ちもすご過ぎます。。私は武力の存在の必然性や、戦争や紛争のリスクの存在の必然性、そしてそこにある利益の存在、またそもそもそれらの全てに偶然が関わっていることも一定程度は理解できているつもりではいるのですが、母親が順次奪っていったのは世界中の武器どころの話しではなくて生身の子供の(後の世界中の兵隊たちの)身体の一部分ずつです。。例えば戯曲を自分の手で書いてそれを人に見て貰ったり、自分の足で踊って見せたり、自分が劇を鑑賞したり、劇を鑑賞した人(自分も含む)を自分が見たり、猫と遊んだりとかその他もろもろその時点での身体の使い道は他にもいっぱいあった筈なのにも関わらずな感じで、ちょっと納得できない感は個人的にはありました..。
私みたいな素人目線からだと、ここでは戦争に関する真実(や、必然性?←偶然のない戦争だったり人生なんてありえなくても、偶然に起こったことを運命だったんだとのちに解釈することは多くの人がやっていることだと思いますので、その意味では必然性という表現でもまぁまぁあってるのかなっと..話がちょっと離れちゃったかもしれませんが..)を浮き彫りにすることを目的とし過ぎたことによる母親像の悪魔化(?)みたいなことも同時に行われている感じで、「どうして私が考えなければいけないんですか!」って返してきた方の反応も、もしかしたら飽くまでも比喩(比喩的・論理的な符号化)なのにというのが通じていなかった上の『考え過ぎているのがこのジロドゥとかいう人だ!』だった可能性もあるのかな..っとか思っちゃいました。。偶然に対する『必然性』化と、必然性に対する『偶然』化とか、事実による『真実』化と、人それぞれの『真実』による『事実』化とか、符号化される前の『あるがまま』に対する符号化とかが繰り返されながら進行していると考えたら、戦争に関する真実を描く過程で出されたこの母親像もその真実に匹敵する位にジロドゥから求められていた、ともとれなくは無いかも..というのがほとんど知っていないこのツイートの方の反応に寄り添ったつもりの、飽くまで私の感想でした。。
玉田泰 says:
12月 19, 2016
「この程度の真実にたじろぎなどしないはず」
いえいえ、たじろぎました。自分の中に根深く残っている「サヨク的信仰」を発見して。まあ僕はこのブログの良き読者ではないのかも知れませんが。
ただ「どうして私が考えなければならないんですか!」とは絶対に言いません。それだけは自信があります。
ですからこのブログの片隅に身を置くことをお許し下さい。