おなじみ「表現者」の最新号(73号)が
16日に発売となりました。
今回の特集は「テクノマネーマニアックの時代に〜反乱は可能か」。
編集後記によれば
テクノマネーマニアック
というのは
西部先生が提唱した言葉とのこと。
IT化によって加速する一方のマネーゲームと、人々がそれに狂奔する状態
のことを指すのでしょうが、
失礼ながら、英語としては妙な感じがします。
IT化によって加速する一方のマネーゲーム
のことは
サイバーキャピタル
と言うのが普通。
ついでに「マニアック」は
名詞として使われる場合は「狂奔している人」という意味になります。
「狂奔する状態」ならマニアでしょうね。
よって今号の特集、
英語としての正確さにこだわるのなら
サイバーキャピタルマニア〜反乱は可能か
と読み替えたほうがいいと思いますが
そこはそれ、
西部先生独特のカタカナ言葉を味わうのも
あの雑誌の魅力のうちですので
とやかくは申しません。
それはともかく。
私が同誌でやらせていただいている連載「一言一会」は
各号の特集とは基本的に独立しているのですが
今回はサイバーキャピタルマニアというテーマに沿って書きました。
題して、
「信用」が人間を裏切るとき。
題材としたのは
『シェルタリング・スカイ』
(ポール・ボウルズ、1949年。1990年、ベルナルド・ベルトルッチによって映画化)と
『コズモポリス』
(ドン・デリーロ、2003年。2012年、デヴィッド・クローネンバーグによって映画化)
という二本の作品ですが
じつは今回の評論、
中野剛志さんの大著『富国と強兵』にたいする
私のコメントでもあります。
(↓)かなり酔いが回ってきている感あり。
あの本のテーマについては
貨幣は本来「負債」であるとか
政府による制御なしに資本主義経済は安定しない
あるいは
地政学的条件を無視した経済戦略は幻想だ
といった点がよく指摘されます。
むろん、これらの点も扱われていますよ。
しかし私に言わせれば
『富国と強兵』の真のテーマは別にある。
すなわち
経済の本質とは「信用」の制御であり、
信用の制御とは「時間」の制御である
というのが
あの本の中核にある思想なのです。
中野さん公認ですからね、これは。
ちなみに中野さんが最近刊行した
『真説・企業論』にしたところで
ベンチャー企業(ないしベンチャーキャピタル)の実態を暴く
というのは
じつは議論のモチーフにすぎない。
あの本の真のテーマは
ベンチャーとは「時流に乗る」ことであり、
イノベーションとは「時代の変化に適応すべく、みずから時流を創る」ことだが、
両者はじつは矛盾する
というものなのです。
時流とはすでに存在しているものである以上、
それに乗ろうとしてばかりいる者が
時流を新たに創れるはずはない。
当たり前と言えば当たり前なのですが、
これすなわち『富国と強兵』で提示された
経済の本質は時間の制御
というコンセプトを
さらに展開させたもの。
こちらも中野さん公認ですぞ、念のため。
しかるに『シェルタリング・スカイ』には
世界を信用できなくなった人間を描くことで
信用と貨幣の関係を浮き彫りにした場面がある。
そして『コズモポリス』は
信用を制御すべく(=マネーゲームで利益を得るべく)
時間を制御しようと努めることが
最後には自滅的な結果を引き起こすことを
鋭くえぐった作品なのです。
というわけで
中野剛志の真の読み方を知るうえでも
ぜひ「『信用』が人間を裏切るとき」をどうぞ!
ちなみに22日のトークショーには
平松禎史さんや
三沢カヅチカさんがいらして下さる予定ですが
もしかしたら中野さんも来てくれるかも知れませんよ。
そしてもちろん、この本もよろしく!
「勝手にしやがれ、天下国家!」は
実質的な発売記念トークショーですからね。
ではでは♬(^_^)♬
12 comments
GUY FAWKES says:
6月 18, 2017
>ちなみに中野さんが最近刊行した『真説・企業論』にしたところでベンチャー企業(ないしベンチャーキャピタル)の実態を暴く
というのはじつは議論のモチーフにすぎない。
>あの本の真のテーマはベンチャーとは「時流に乗る」ことであり、イノベーションとは「時代の変化に適応すべく、みずから時流を創る」ことだが、両者はじつは矛盾するというものなのです。
件の『真説・企業論』は新書一冊でベンチャーとイノベーション、アメリカ経済の実態を暴き出した傑作だと思いました。
かつては「ベンチャーという過程(原因)を経て、イノベーションという結果を獲得する」と漠然と考えていましたが、
実際は「政府による制御の下におかれた資本主義経済の安定が『信用』を持続させイノベーションを生み出し、
その『時間』にあってこそ初めてベンチャーが参入する土台が創り出される」
中野さんも書中でお書きになっていた通り、因果関係が逆転しているのですね。
そういえば、クローネンバーグ監督というと3年前の映画『マップ・トゥ・ザ・スターズ』も人間それ自体を抑圧し、
都合のいい様に一方的な制御をする悍ましさが描かれていたと思います、割とわかりやすい風刺でしたが。
マゼラン星人二代目 says:
6月 18, 2017
>時流とはすでに存在しているものである以上、
>それに乗ろうとしてばかりいる者が
>時流を新たに創れるはずはない。
そこは、ベンチャー(キャピタル)推しの人たちにも言い分はあるのでは。
彼ら彼女らはこう言うに違いありません。
潜在的にあるものを顕在化してみせるのがベンチャー(キャピタル)の使命だ、と。(何も無から有をもたらすわけではない)
確乎として存在しながらも冴えた心眼でしか見えないものを、どんなボンクラでもわかるように提示する。
「天才」とは、「創造」とは、そういうものではないのか、というわけです。
こう考えれば、「時流に乗る」と「時流を作る」は実質的には同一で矛盾など有ってなきが如し、彼ら彼女らの立場からすれば大した問題ではないことになる。
マゼラン星人二代目 says:
6月 18, 2017
かように理屈でなら何とでも言える、現実はまた別、ということです。
だからこそ、ご本でも、
「ベンチャー企業(ないしベンチャーキャピタル)の実態を暴く」ということで、
>実態
こそが一つのトピックになっているのだと拝察します。
せい says:
6月 19, 2017
ソニーがiPodやスマートフォンを作れなかったように、潜在的なニーズや技術、発想はあれど(?)、大人の事情で無理な事が、外国で作られた事に対して「なぜ日本では出来なかったんだ。企業体質が古臭いからだ。新陳代謝でイノベーションだ。」と批判する記事がありますが、社会の調整期間が外国より多く必要だっただけで、いずれは作られたものだったりして。多少の不便より秩序の方を重んじるだけなのかもしれません。アメリカは野蛮だからこそ変化が早いと。野蛮な社会を目指す日本。まあデザインのセンスとスマホの利便性には素直に感服しておりますけれども。
メイ says:
6月 23, 2017
記事の内容とは少し違ってしまうかもしれませんが・・。
「天才というのは『時代の波』に飲み込まれていない人。海面から顔を出せる人だと思うんだ」と、学生時代のゼミの先生が仰っていたのですが、中野さんの事を考える時、よくこの言葉が思い出されます。
中野さんのお話しをお聴きしたり文章をお読みしたりすると、「時を駆ける少女」のように過去と現在を行ったり来たりしながら何かを探しているような感じがするような・・。
大雑把な私には絶対にできないような緻密さでつぶさに過去の出来事を検証されますが、その中で探しているものは、今とよく似た時代の出来事の顛末やどう対処したか、というような、選ぶべき道や答えだったり、過去からの知恵だったり、時代を超えた普遍的な法則なのだろうか・・などと逡巡します。
玉田泰 says:
7月 15, 2017
「経済の本質とは『信用』の制御であり、」は、スッと理解出来ましたが、
「信用の制御は『時間』の制御である。」は、分かりませんでした。
そこで、「『信用』が人間を裏切るとき」を、読みました。僕の理解したところによれば、ここは「時間」というより、「将来」もしくは「未来(予測)」の方が相応しいのではないでしょうか?
それなら、僕にも理解できます。
それで、「『信用』が人間を裏切るとき」なのですが、興味深く読みました。特に中盤(p139)の「最後に繁栄するのは~自己目的化をきたした金融システム」自体のみ、という指摘は、その通りだなと感心させられました。
ですが、結論として「貨幣以上に信ずべきもの」として「信仰」が提示されますが、そうでしょうか?
本来「信用」とは「人間」関係(社会)を成り立たせる要素のはず。それがなぜ「人間(関係・社会)」を飛ばして「神(信仰・宗教)」へと行きついてしまうのかが、よく判りませんでした。
SATOKENJI says:
7月 15, 2017
>「時間」というより、「将来」もしくは「未来(予測)」の方が相応しい
べつにそれでもいいですよ。
>本来「信用」とは「人間」関係(社会)を成り立たせる要素のはず。
>それがなぜ「人間(関係・社会)」を飛ばして「神(信仰・宗教)」へと行きついてしまうのか
貨幣の本質が信用であるとすれば
貨幣以上に信ずべきものを見つけるというのは
信用以上に信ずべきものを見つけることとイコールだからです。
当然、人間や社会を超えねばならないのですよ。
玉田泰 says:
7月 23, 2017
先生のご回答を読んで、更に何日も考え込んでしまいました。
それで、僕なりの仮説を立てました。
「先生が語ろうとしている信仰とは、明示されているカトリック系などとは違う、まだ明らかではない事柄の仮称であり、その辺りが文章として未分化なのではないか(表現媒体向けのサービスとして、意図的に)」
というものです。
この仮説は、間違いでしょうか?
SATOKENJI says:
7月 23, 2017
別にカトリックならカトリックでもいいのですよ。
この場合の信仰とは
「人間を超えた存在とつながる可能性、
ないし人間を超えた境地にいたる可能性を尊敬の念とともに信じること」
と規定できます。
これを体系化したものが、各宗教の教義ですが、
信仰は教義のいかんによらず、宗教の基礎でしょう。
玉田泰 says:
7月 26, 2017
ご回答ありがとうございます。
何度も読み返し、僕の違和感の正体に気づきました。既存の宗教は、何でもいいからとにかく神を信じなさい、というところから始める気がするのです。
それは思い込みでしょうか?
SATOKENJI says:
7月 26, 2017
信仰より崇拝が優先されやすいということでしょうね。
玉田泰 says:
7月 27, 2017
返信ボタンのない理由が判りましたね(笑)
それはさておき、カトリックの家庭で育った人には、信仰が当たり前にあります。同様に日本家庭に育った僕には、日本語(文化)を当たり前に受け入れ、日本円(お金)を信仰する環境があったのでしょう。
今後、どのように宗派を選択すればいいのかという具体論はさておき、幼いうちに日本文化への盲目的な信仰は、日本の外に広がる世界を知りゆく中で、自然に対象化し得たのだと思います。しかし、お金への信仰は最近まで対象化できませんでした。
「富国と強兵」や三橋氏の「お金とは何か」の一連の動画の視聴を通して気付いたのですが、それらがなければ未だに気付いていなかったでしょう。信仰なのだと気付かないことが問題なのではないでしょうか?
実際、崇拝は蔓延し、グローバリズムの牽引機関ともなり、大きな社会・経済の弊害になっていると思います。
そして、将来へと話題は飛躍しますが、経済が人間の感知するものではなくなる時代(テクノマネーマニアックが完成する社会)が到来したら、お金への信仰は無意味(そもそもお金が存在するのか疑問)になる気がします。その時機能するのは、信用ではないでしょうか?