今まで何度か取り上げてきた

東大和9条の会ポスターに記されているポエムについて、

KATOさんから、こんなコメントがありました。

 

このフレ-ズと理念をそのまんまするっと受け入れられる人から見れば、

佐藤さんの分析は非常に斜め過ぎるそうです。

そして、この文章の欠陥は

「戦争を受け入れる」を

「戦争をする事を受け入れる」と修正する事でクリアされるそうです。

(つまりは「戦争をする事を受け入れる」とすれば、佐藤さんの分析とコメントで指摘されてる疑問は解消される?)

受け身である事に変わりはないし。

どうなんでしょうね。

今回の問題提起は論議を喚起させそうですね。イヤさせたい!!

 

では、ポエムをあらためてどうぞ。

 

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さて。

「この国が戦争を受け入れて」(3行目)を

「この国が戦争をすることを受け入れて」に変えたら、

ポエムの欠陥は修正されるか?

 

まず指摘されるべきは

現在の憲法改正手続きを考えた場合

「戦争をすることを受け入れて

という表現は適切でないこと。

 

9条改正だって、国民投票なしには成立しないのです。

「戦争をすることに決めて」でしょうに。

自分たちが主体的に決められる(というか、決めなければならない)点について

誰かから押しつけられるかのごとく考えるのはよろしくありません。

 

次に。

9条を改正したら、ただちに戦争が起きると仮定するのならいざ知らず、

〈9条を改正すること=戦争をすると決めること〉という等式は成立しない。

 

せいぜい

場合によっては、戦争をすることもありうると決めること

でしょう。

 

しかしまあ、それらはとりあえず脇に置きます。

戦争を受け入れるのではなく

戦争をすることを受け入れるのであれば、

はたして欠陥は直るか?

 

残念ながら直らないというのが私の見解です。

なぜか。

 

そのあとに、

あなたの父や母や兄弟や

友だちや恋人が

誰かに殺されるのを

という箇所があるため。

 

「あなた」の家族・友人・恋人が殺されるという点からして、

戦争を受け入れようと

戦争をすることを受け入れようと

国内が戦場となるのが想定されている点は揺るぎません。

 

日本が他国で戦争をした場合、「あなたがその手で誰かを殺す」ことはありえますが、

家族・友人・恋人が殺される危険は(まず)ないでしょう。

現地まで同行するのならともかく・・・

 

「新日本経済新聞」でも書いたように、「受け入れて」バージョンの場合、

このポエムには

憲法9条が改正されようと、日本が戦争を始めることはなく、

戦争がありうるとすれば、他国の攻撃を受けて「本土決戦」的状況に陥る場合のみである!

という論理構造が存在します。

 

「戦争をすることを受け入れて」に変えても、これに

9条を改正して戦争を始めたら最後、逆に攻め込まれて「本土決戦」的状況に陥ることは確実!

という論理が追加されるだけ。

 

その場合、〈9条があれば後者のシナリオがなくなる〉と主張することは可能ですよ。

ただし〈9条さえあれば、一方的に攻め込まれることすら起こらない〉ことが保証されない以上、

結論は基本的に変わりません。

 

しかも、

9条を改正して戦争を始めたら最後、逆に攻め込まれて「本土決戦」的状況に陥ることは確実!

と考えるのは妥当か?

 

妥当でないとすれば

〈9条があれば後者のシナリオがなくなる〉

と主張することにも意味がない!

 

・・・で、欠陥がどう修正されるんですか。

 

このポエムが「9条擁護」として意味をなすには

1)「想像してみよう」と謳われている内容は、9条を改正したら確実に起こり

2)かつ9条があるかぎり起こらない

という2つの前提が成立しなければならないものの

戦争を受け入れようが

戦争をすることを受け入れようが

どちらも成立していない点は同じなのです。

 

あまつさえ、「あなたが殺される」ことが想定されていないという問題は手つかずのまま!

この危機意識の甘さは何でありましょうか!!

 

ちなみに。

戦争を始めたら最後、逆に攻め込まれて「本土決戦」的状況に陥る

というのは、太平洋戦争の経緯とほぼ同じ。

してみると、

「戦争をすることを受け入れて」に修正すれば

ポエムの欠陥が修正されると考える方々には

「日本が関わるいかなる戦争も、太平洋戦争と同じ顛末をたどる(はずだ)」

という思い込みがあるのかも知れません。

 

いけませんよ、負け癖をつけては・・・

 

かのトマス・ペイン

名著「コモン・センス」の中で

憲法9条的な絶対平和主義の立場(※)から

独立戦争に反対したクエーカー教徒にたいして

次のような趣旨のことを述べています。

 

(※)偶然とは言い切れません。9条の発想はクエーカーの教義がルーツかも知れないのです。

 

諸君の議論には、

武器を取ることこそ、あらゆる罪の根源であるという

驚くべき含みがうかがわれる。

武器を取ったものは、理由のいかんを問わず

あらゆる罪を抱え込むらしい。

だがこの発想は、「長いものには巻かれろ」の正当化であり、

人間を強者のしもべ、つまりポチに仕立て上げるものだ。

 

原著の発表から238年目にして、はじめて刊行された完全版日本語訳です。

 

電子版もご用意しています。

 

なるほど、そうか!

現政権の支持率が高い理由が分かった(笑)。

 

ではでは♬(^_^)♬