手塚治虫さんは、

名著『マンガの描き方』

漫画を描こうとする人々にたいし、

 

支離滅裂、奇っ怪破廉恥、荒唐無稽、

独善茫然自暴自棄、

非道残虐陰惨無法、

狂乱狂恋百鬼夜行!!

 

・・・的なものを描いてもらいたいと述べました。

 

ンな、ムチャクチャなという感もありますが、

じつはこれ、

手塚さんの漫画観の根本に関わること。

 

『マンガの描き方』で手塚さん、

漫画の本質を

「落書き」であり

「風刺」だと規定します。

 

つまりは自分の不満や願望、

要するにホンネ

大真面目にではなく

からかい精神をこめて

ゲリラ的に表現するメディア。

 

そして人間のホンネには

キレイゴトではすまないものも多々あるし、

論理的な整合性があるとは限らない・・・というか、

たいがいは整合性など存在しない。

 

だからこそ

支離滅裂、奇っ怪破廉恥、荒唐無稽(以下略)

であることは、

マイナスではなく、

むしろ積極的なプラスなのです。

 

ただし注意すべきは、

これらがプラスの価値になりうるのも、

漫画が、いわゆる「シリアス」なメディアではないから。

 

ふたたび手塚さんを引用しましょう。

 

荒唐無稽さ、

デタラメさを抜きとった漫画が、いかにつまらないか、

考えてみるといい。(中略)

漫画のなにがおもしろいかといって、

あのしたたかなウソ、ホラ、デタラメ、

支離滅裂、荒唐無稽さに出会ったときの

たのしさったら、ないのである。

(『マンガの描き方』、30ページ)

 

事実、手塚さんは

いわゆる「劇画」が長いこと嫌いだったそうです。

絵もストーリーもリアルすぎて、

漫画の本質を否定したものに思えたとか。

 

ところが日本の漫画は、

いつしか「劇画」系のリアル派が主流となりました。

その何よりの証拠は

「劇画」という言葉そのものが(実質的に)死語となったこと。

 

当たり前です。

漫画として発表されている作品のほとんどが「劇画」なら、

わざわざ「劇画」と呼んで区別する理由がない。

 

つまりはゲリラ的、

反体制的な自由さを身上としていたはずの漫画が

なまじ市民権を得すぎたせいで、

かえって生命力を失った可能性があるわけです。

 

──民主党政権を連想した人、手を挙げて!!(笑)

 

しかし。

漫画がシリアスになっていったということは、

裏を返せば、

シリアスな文化のほうが、マンガチックになりかねないということ。

 

明日はこの点に触れましょう。

ではでは♬(^_^)♬