今週の「新日本経済新聞」に

「自衛隊の活躍を不思議がる人々」というメルマガを寄稿しました。

 

このブログに10月7日付で書いた

同名記事のスケールアップ・バージョンですが、

ちょっと補足しておきます。

 

メルマガの中で私は

「シン・ゴジラ」の自衛隊は、過去の作品と比べても特段活躍しているわけではない

ことを指摘しました。

 

1984年のリブート版「ゴジラ」

(「シン・ゴジラ」の筋立ては、同作をかなり手本にしています)では

自衛隊は事実上、単独でゴジラを撃退していたのです。

 

つづく1989年の「ゴジラ VS ビオランテ」にいたっては

防衛庁と国土庁が共同で、

4段階のゴジラ監視体制まで敷いていた。

 

早い話、どこかから妨害が入らないかぎり

ゴジラを水際で撃退できるようになっていたのです。

これに比べたら、「シン・ゴジラ」の自衛隊なんて弱いもんじゃないですか。

 

・・・それはさておき、

防衛庁も国土庁も、現在は改称されています。

前者は防衛省となり、

後者は運輸省建設省などとともに国土交通省に統合されました。

 

したがって、現在の日本でゴジラ監視体制を敷くとしたら

防衛省と国交省が共同で担当することになりそうなものですが

実際にはそうならない可能性が高い。

 

かつての国土庁は防災行政も担当していたのですが

国交省統合に際し、これは内閣府に移管されたのです。

 

ゴジラ来襲も災害の一種だとすれば

内閣府と防衛省が共同で監視することになるのではないでしょうか。

ついでにゴジラも生物ですから

環境省も参加することになるでしょう。

 

ところで。

 

「シン・ゴジラ」については

名士列車万歳! さんから面白いコメントが来ています。

この映画は

説明が曖昧にされているがゆえ観る側が好き勝手に内容を考察できる作品

ではないかとのこと。

 

まったく、その通りだと思います。

ただしこれは、 同作品に観客の反応を封じ込めようとする傾向が見られることと矛盾しません。

 

「シン・ゴジラ」は、

説明を曖昧なままにしておいて、情報量を過剰にする

という作りになっているからです。

 

過剰な情報量によって、作品世界(=本来の意味での内容)に入り込ませないようにしておくと同時に、

曖昧な説明によって、「どんな内容に解釈しても正しいんだ」という印象を与えているのですよ。

 

作品世界が観客にたいして多分に閉じられているがゆえに

良くも悪くも、観客が勝手に世界を想像するしかない、

そういう形容もできるでしょう。

だから見終わったあと、あれこれ論じたくなる人が続出しているのではないでしょうか。

 

ここで想起されるのが

アメリカの映画評論家ジョナサン・ローゼンバウムが1997年に刊行した著書

「政治としての映画」に収録されている

「ALLUSION PROFUSION」というエッセイ。

 

ALLUSION PROFUSION とは

過去の映画にたいするオマージュの寄せ集めによって成立している映画

のことですので、

日本語に訳せば「オタクネタてんこ盛り」というところでしょう。

 

ローゼンバウムいわく。

クエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」をはじめとして、

最近のハリウッド映画には、

本来オタクネタにすぎない事柄を、ことさら真剣に扱ってみせる傾向が見られる。

 

これはアメリカ文化の自閉性にたいする皮肉なのか?

それとも当の自閉性にどっぷりつかろうとしているのか?

 

じつは両方の立場を、

都合によって使い分けているのだ!

 

こうして映画は、

インテリ志向の観客と

大衆的な観客のどちらにも

アピールする内容となる。

 

誰も「自分がのけ者にされている」と感じることはなく、

それどころか「わが意を得たり」という気分になるのだ。

 

要するにこれらの映画は

あなたが今の世の中にどんな不満を抱いていようと

そういうあなたは100%正しい

と語っているのである。

 

「シン・ゴジラ」がヒットした理由も、

これでだいたい説明がつくのではないでしょうか。

ではでは♬(^_^)♬

 

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