まず最初に明言いたしますが、
福田恆存さんが全体主義者という意味ではありません。
ご存じのとおり
昭和前半期のわが国では
全体主義的な風潮が強まったあげく
欧米相手の戦争に突き進みました。
で、結果は大敗。
そのせいもあってか、戦後日本では
民主主義と全体主義を反対概念のごとく位置づける傾向が強い。
だが、本当にそうか?!
ヒトラーが(とりあえず)合法的に政権を奪取したことを想起するまでもなく
両者の境界線は思いのほか曖昧ではないのか。
カナダの優れた映画評論家ロビン・ウッドは、関連してこんなことを述べています。
ヒッチコックの映画には
〈民主主義と全体主義は紙一重ではないのか〉という不安がうかがわれる。
「救命艇」に登場したUボート艦長を想起するがいい。
むろん彼はドイツ人で全体主義者だ。
だがあの艦長を、
「疑惑の影」や「ロープ」に登場したアメリカ人の殺人者たちと本当に区別できるか?
(傍白:平松禎史さん、これについてぜひコメントを!)
もっと一般化して言おう。
アメリカ人の好む個人主義的なヒーローは、
〈英雄的なファシスト〉とどこまで違う存在だろうか?
「自力でフロンティアを切り開く西部の男」と
「残虐非道なマフィアのボス」は
対極にある存在か、それとも表裏一体か?
(ロビン・ウッド「HOLLYWOOD FROM VIETNAM TO REAGAN」より)
ならば戦後日本で民主主義が謳われていることは
全体主義の復活がありえないことの保証にはならない。
というより、
藤井聡さんや三橋貴明さんが最近、警告しているとおり
全体主義的な風潮は、今や着実に高まりつつあるかも知れないのです。
そして福田恆存さん、
〈近代日本において全体主義的な風潮が高まるメカニズム〉についても、
鋭い指摘をされているのですよ。
ならば、そのメカニズムはいかなるものか?
これについては、本日の新日本経済新聞で配信される記事
「<演劇的文化論>近代化と全体主義」をどうぞ。
9:00ぐらいからご覧になれるでしょう。
かいつまんで申し上げれば、
急速な近代化にともなう社会的連帯の喪失こそが
回り回って全体主義を生むのではないかという
パラドックスが存在するのです。
というわけで、こちらもどうぞ。
ではでは♬(^_^)♬
5 comments
平松禎史 says:
6月 3, 2015
「救命艇」「ロープ」は以前三橋さんのメルマガでも取り上げました。
(下にリンクを付けておきます。)
「救命艇」は1943年の映画です。
Uボートに沈められた客船から救命艇へ乗り移った人々は、誰も操船技術を持たない人たちでした。
この設定がすでに映画のテーマと密接につながっていて、当時の状況も示していますね。
誰も、戦争をどう導いて良いかわかっていないのです。
彼らは誰がリーダーになるべきか議論しますが結局は腕っ節の強い機関員の「力」に従います。
そこへ、客船沈没に巻き込まれて沈んだUボートの乗組員が加わります。
敵のドイツ人が、ただ一人船を操れる人だったのです。
全員が、とりあえず船を操れる人間に従おうと、民主的にリーダーにします。
力でリーダーを勝ち取った機関員は一旦敗れます。
しかし映画の結末では、ドイツ兵が怪我をした乗員を殺したのではないか?と疑って全員でリンチにかけ、海に沈めてしまうのです。
怪我をした乗員は衰弱し生きる希望を失っていましたから安楽死とも殺人ともとれるグレーな描写でした。
果たして罪深い殺人者は誰なのか?
「疑惑の影」も1943年の映画です。
この映画のチャーリー/チャーリー伯父さんとその家族の構図は、「ダークナイト」のバットマン/トゥーフェイス(ジョーカー)とゴッサム市民に置き換え可能です。
チャーリー一家は理想的な米国家庭として美しく描かれます。
チャーリーは、美しい家庭と憧れの叔父という「理想像」を守るため、叔父のチャーリーが実は連続未亡人殺害犯であることを家族に最後まで隠します。
バットマンは、ゴッサム・シティ希望の星を守るため、ハービー・デントがトゥーフェイスに堕落したことを隠します。
「疑惑の影」は長引く戦時中。「ダークナイト」は911同時テロ後に価値観が揺らいだアメリカ。
双方ともやや似た状況にありますね。
家族に嘘をついて、自分の「理想」を守らざるを得なかったチャーリー(一般庶民)も共犯者なのです。
「ロープ」は1948年の映画。
思想上の英雄になろうとした青年の話ですが、現実との乖離が浮き彫りになります。
戦後から3年後の混乱を見るようです。
殺人を犯した主人公二人は、自らの優越性を誇示することに躍起です。
二人が「凡人」と見下げる人々は恋愛に悩んだり将来について話しあったり家族を心配する普通の人々ですが、どちらが「凡庸」なのか?という問いかけに思えます。
三本の映画を、民主主義と全体主義で考えると、映画上の「正義と悪」が転倒してしまったり、曖昧になる恐怖が描かれているのが注目点ですね。
「イブセキヨルニ」でも同様の問題を扱っています。
http://animatorexpo.com/ibusekiyoruni/
三橋貴明の「新」日本経済新聞への寄稿文です。参考まで。
「救命艇」
http://www.mitsuhashitakaaki.net/category/hiramatsu/page/7/
「ロープ」「疑惑の影」にも少し触れてます。
http://www.mitsuhashitakaaki.net/category/hiramatsu/page/3/
SATOKENJI says:
6月 3, 2015
力のこもったコメントをありがとうございます!
メルマガはむろん拝見しておりました。
それもあって、リクエストしたのです。
ちなみに「ダークナイト」で最も怖いのは、クライマックスでのトゥーフェイスの言葉でしょう。
いわく、
「(人が善を選ぶか悪を選ぶかは)偶然にすぎない! まったくの偶然で決まるんだ!」
原文は「LUCK! PURE, BLIND LUCK!!」だったと思いますが、
これはつまり、
〈民主主義が全体主義にならずにすむかどうかも偶然で決まる〉
ということではないでしょうか?
マゼラン星人二代目 says:
6月 4, 2015
>急速な近代化にともなう社会的連帯の喪失
>回り回って全体主義を生むのではないかという
人は寂しくなると、依存心が抑えられなくなってくる、
そういう理解でいいなら、意外とわかりやすい議論だと思いますが、
これは、「民主主義」の問題というより、むしろ、「自由主義」の問題ではないでしょうか。
「民主主義」は、参画と糾合と動員の原理。
「自由主義」は、自立と分断の原理。「社会的連帯の喪失」に近いのはこちらではないでしょうか。
ホイップ says:
6月 4, 2015
>民主主義が全体主義にならずにすむかどうかも偶然で決まる
全てが偶然で決まるのだとすれば、人生の意味とは何ですか。
SATOKENJI says:
6月 4, 2015
そこがポイントなのです。
トゥーフェイスは、人生に意味などないと言っているのですよ。