いい加減なインテリが多々存在する中で、
自分のレベルを引き上げるにはどうしたらいいか、
それは明日からお話ししましょう。
8月15日配信の記事
「これがインテリの文章だ! part5」の最後では
こう書いたわけですが、
その前にちょっと補足を。
というのも、8月13日配信の
「これがインテリの文章だ! part3」について
マゼラン星人二代目さんより、興味深いコメントをいただいたのです。
この日の記事で取り上げた箇所については、小松春雄先生の訳を支持したいとのこと。
これについて考えてみたいのですが
出発点として、
問題の箇所の
1)原文
2)小松春雄訳
3)佐藤健志訳
を、あらためて並べておきましょう。
1)トマス・ペインの原文
(T)hose whose sentiments are injudicious,
or unfriendly,
will cease of themselves
unless too much pains are bestowed upon their conversion.
2)小松春雄訳
浅はかな人間や
敵意を持った者は
転向することがたいして苦痛ではないなら、
おのずから考えを変えるだろう。
3)佐藤健志訳
思慮のない者、
あるいは悪意のある者は、
放っておけば消えてゆく。
反論や説得にこだわりすぎると、
向こうもムキになって頑張るため、
かえって延命に手を貸す結果ともなりかねない。
これにたいする、マゼラン星人二代目さんのコメントを
抜粋してご紹介しましょう。
無用な個人攻撃で、(想定されている)論敵に恥をかかせて引くに引けないところに追いやることの愚、先生の訳文で言えば、「反論や説得に」力を入れすぎて、かえって論敵を刺激して「ムキになって」の「頑張」りを惹起してしまうという本末転倒。
確かに原著者が想定していたのは、そういうことだったのかも知れません。
しかし、その一方で、想定していたことをあえて直接的に描写せず、むしろ、「仄めかし」にとどめるべく、いささか遠まわしな表現を選び生臭さを封印しにかかったのは、(小松御大ではなく)原著者自身なのではないでしょうか。だとすると、訳文を作成するにあたってはそのことも尊重しなくてはならないはずです。
そういうわけで、”unless too much pains are bestowed upon their conversion.”という箇所を、できるだけ日本語らしく訳出するとなると、やはり、
「転向することがたいして苦痛でないなら、」
以外の選択しかないと思います。少なくとも、これを大きく逸脱した訳文は考えられません。
しかし、残念ながらそうではないのです。
詳細は明日のブログで。
ではでは♬(^_^)♬
それからマゼラン星人二代目さんに。
小松訳でカットされた箇所を、E-textでご覧になりたければこちらをどうぞ。
カットされているのは
To the Representatives of the Religious Society of the People called Quakers
で始まる箇所から、最後までです。
10 comments
マゼラン星人二代目 says:
8月 16, 2014
私のコメントをお取りあげいただき感謝にたえません。
今回のテキストで確かに尋ねあたりました。有難うございます。
何で今までマッチしなかったのか、今もってわかりません。
スペルに間違いがあったか? そんな筈はないのですが。。。
とまれ、今回お取りあげいただいた該当個所の解釈についても、(エセ知識人にだまされないための)自己研鑽の仕方についても、今後、楽しみししております。
マゼラン星人二代目 says:
8月 16, 2014
>何で今までマッチしなかったのか、今もってわかりません。
少しだけわかってきました。
私が参照していたのは、選集(1906年作成)に採録されたもの(の電子版)だったのでした。
参照: http://www.gutenberg.org/files/3755/3755-h/3755-h.htm
件の選集では、”To the Representatives of …”の部分が”Epistle to Quakers”という題目のもと、あたかも”Common Sence”本文とは別個の著作であるかのような採録のされ方になっている。
かかる条件のもとで、”Common Sence”と題された文書を単独で取りあげるとなると、”To the Representatives of …”の部分は脱落する道理です。
他方、Project Gutenbergでは、この選集版のほかに、”To the Representatives of …”を含んだものも、別個に電子化され公表されている。
参照: http://www.gutenberg.org/files/147/147-h/147-h.htm
今回、それをご教示いただいたことで、件の箇所をはじめて確認できた次第です。
再度、多謝。
マゼラン星人二代目 says:
8月 16, 2014
>件の選集では、”To the Representatives of …”の部分が”Epistle to Quakers”とい
>う題目のもと、あたかも”Common Sence”本文とは別個の著作であるかのような採録のさ
>れ方になっている。
参照: http://www.bartleby.com/184/
s says:
8月 18, 2014
>浅はかな人間や
>敵意を持った者は
>転向することがたいして苦痛ではないなら、
>おのずから考えを変えるだろう。
小松春雄訳の部分を自分なりに解釈してみたいと思います。
私自身「浅はかな」時や
「敵意を持った」自分である時があると思うのですが、
そのようなとき「転向することがたいして苦痛ではない」
とはいえ「おのずから考えを変える」時には「賢明であり善意を持った者である」
とも言えるのではないでしょうか。
だとすると「浅はかな人間や敵意を持った者」は「賢明であり善意を持った者」でもある
となってしまうと思うのです。
だとすると私はそうゆう自分の間を行ったり来たりする生き物だと言えるので
はないでしょうか。
だとすると
>賢明な人間や
>善意を持った者は
>転向することがたいして苦痛ではないなら、
>おのずから考えを変えるだろう。
とも言えると思うのですがいかがでしょうか。何か変ですね。
現実には聖人君子や常に敵意むき出しの人などそうそう存在しないと
私は思うのですが、この文章中の浅はかな人間や敵意を持った者とは
ある特定の「状況」について「浅はかな人間や敵意を持った者」として
書かれてあると見るべきでしょう。
であるとするならば、「転向すること」「おのずから考えを変える」ことが、
ある特定の「状況」について「苦痛ではない」必要はどこからくるのでしょうか。
ある特定の「状況」についてのある種の感情ではないかと、私は思うのですが
ある特定の状況とはなんでしょうか。九条であれば、戦争に対する憎しみでしょうか。
それとも平和への祈りでしょうか。それともそれを邪魔する人々への怒りでしょうか。
それらを感じる事で得られる満足感でしょうか。それともただの意地でしょうか。
それらが彼らの動機として作用しているのだとしたら、
「転向することがたいして苦痛ではない」ためには、それらの感情から解放されるか
弱められる必要があると思うのですが、だとすると
「賢明な人間や善意を持った者」である事と
「戦争に対する憎しみ。それとも平和への祈り。それを邪魔する人々への怒り。
それらを感じる事で得られる満足感。ただの意地。」を持つ事
はあまり関係ないように思うのですが、いかがでしょうか。
それはそうした状態を維持するための条件にすぎないと思うのですが
いかがでしょうか。
だとするならば彼らは自分のある特定の「状況」に対する「感情」と言う条件によって
「浅はかな人間や敵意を持った者」であり続けるとゆう理解でよろしいでしょうか。
これが正しいと仮定すると、こうした感情から解放されるか弱められる事が無い限り、
>おのずから考えを変えるだろう。
と言う事は不可能なのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
「おのずから考えを変える」ためには、ある特定の「状況」に対する「感情」
を弱めればいいとすると、放っておくと言うのも一つの方法として
あり得ると思います。
「戦争に対する憎しみ。それとも平和への祈り。それを邪魔する人々への怒り。
それらを感じる事で得られる満足感。ただの意地。」
人間は怒ったり泣いたりすると快感を感じるそうです。
怒りっぽい人や泣きやすい人は快感を感じているそうです。
これらはストレスに対する発散として感じるものなのですが、
よく映画とか、ドラマ、歌とか漫画とか、共感できず何の感情も
わかないものを見ても面白くも何ともないと思うのですが、
その作品の中で自分の感情を解放する事によって
ストレスを発散し快感を感じているのです。
九条を信じる人達にとっては、
「戦争に対する憎しみ。平和への祈り。それを邪魔する人々への怒り。
それらを感じる事で得られる満足感。ただの意地。」
などの感情を解放することが生き甲斐となっているのではないかと
つまり手段の目的化が起こっているように思うのです。
感情を持つ事が良い悪いと言う話しではなく人間にはそうゆう側面もある
とするなら、戦略としてそうゆう方法もあると思います。
だとすると佐藤さんの訳のほうがわたしにはしっくりくるのです。
s says:
8月 18, 2014
訂正 ×つまり手段の目的化が起こっているように思うのです。
→ ◯つまり目的の手段化が起こっているように思うのです。
s says:
8月 18, 2014
しかしながら、「九条を信じる人達」に対してはそれで良いかもしれませんが、
>賢明な人間や
>善意を持った者は
>転向することがたいして苦痛ではないなら、
>おのずから考えを変えるだろう。
と言う事がいえるとするなら、人間と言うのは
「浅はかな人間や敵意を持った者」に
なれると言う事も意味すると思うのです。
「感情を持つ事が良い悪いと言う話しではなく」
その目的を達成するための手段が、間違っている場合
その目的に大義は無いと思います。
だとするならば
「その目的を達成するための手段が、間違っている」
ことがわかることが,「賢明な人間や善意を持った者」
であり続ける条件の一つだと思うのですが、
トマス・ペインの「コモンセンス」を読んだ事が無いので
私はよくわからないのですが、
彼はそれがわかることが常識や良識を
持つために必要であり、その目的のための手段として
「コモンセンス」を書いたとするならば、
「浅はかな人間や敵意を持った者」を説得する事
は目的を達成するための手段として、重要ではない
と判断しただけであり、言論による活動によって
「目的を達成するための手段が、間違っている」
事を積極的に主張するべしだと言う事を強調する意味で
「浅はかな人間や敵意を持った者」の話しを
使ったのだとすれば、
>転向することがたいして苦痛ではないなら、
>おのずから考えを変えるだろう。
よりも佐藤さんの訳の
>放っておけば消えてゆく。
>反論や説得にこだわりすぎると、
>向こうもムキになって頑張るため、
>かえって延命に手を貸す結果ともなりかねない。
と言う言い方のほうが自然な感じがするのですが。。。
s says:
8月 19, 2014
私自身「浅はかな人間や敵意を持った者」でもあると思うのですが、
「転向することがたいして苦痛ではない」
とはいえ「おのずから考えを変える」とき「賢明であり善意を持った者」
でもあると言えるとすると、「たいして苦痛ではない」の部分に当てはめて
成立する言葉ならば「おのずから考えを変える」手段として
私にも有効なのではないでしょうか。
>浅はかな私や
>敵意を持った私は
>転向することが面白そうなら、
>おのずから考えを変えるだろう。
>浅はかな私や
>敵意を持った私は
>転向することが儲かりそうなら、
>おのずから考えを変えるだろう。
>浅はかな私や
>敵意を持った私は
>転向することが支持を得そうなら、
>おのずから考えを変えるだろう。
>浅はかな私や
>敵意を持った私は
>転向することが法律に沿っているなら、
>おのずから考えを変えるだろう。
>浅はかな私や
>敵意を持った私は
>転向することが常識や良識にかなうなら、
>おのずから考えを変えるだろう。
何か変ですね。
人間が感情や欲望、規範意識、社会的立場、文化や習慣、環境等様々な
要因で動く生き物だとするならば、そもそも言論のみによって
「賢明であり善意を持った者」で私があり続ける事は不可能なように思うのです。
それを承知の上でトマス・ペインが「コモンセンス」を書いたとするならば
>転向することがたいして苦痛ではないなら、
>おのずから考えを変えるだろう。
とそもそも考えたのでしょうか。少し楽観的すぎないでしょうか。
言論による限界を感じていたと見るほうが自然ではないでしょうか。
私はインテリでも言論人でもないのですが、人の考えを変える事は
そんなに簡単だとは思えないのです。
s says:
8月 22, 2014
ではなぜ小松氏は
>転向することがたいして苦痛ではないなら、
>おのずから考えを変えるだろう。
と訳したのでしょうか。ただの誤訳でしょうか。
それとも彼の実感としてそう思える事があったのでしょうか。
正しく翻訳できているかどうかは置いておくとして、
彼の中にそうした願望の様なものがあったとして
わたしはそれを否定する気にはなれないのです。
「その目的を達成するための手段が、間違っている」
ことがわかることが,
「転向することがたいして苦痛では」なくなり
「おのずから考えを変える」ことにつながり
「賢明な人間や善意を持った者」でありつづける
条件だとするなら、
その「わかる事」が出来なければなりません。
その力はどこからくるのでしょうか。
それはある種の「感覚」からくるものなのではないか、
と思うのですが、
私で言えば嘘をついた時や人を貶めてしまった時に感じる
「違和感」とか「罪悪感」などのもやもやとしたものでしょうか。
その「感覚」を持つ事が、常識や良識を持つために
必要であると小松氏が考えて誤訳したのなら、
>浅はかな私や
>敵意を持った私は
嘘をついた時や人を貶めてしまった時に感じる
「違和感」とか「罪悪感」などのもやもやとしたものを
感じられないとき
>おのずから考えを変えないだろう。
と言えるのではないでしょうか。
想像力と共感性の欠如です。
「人間が感情や欲望、規範意識、社会的立場、文化や習慣、環境等様々な
要因で動く生き物だ」
としてもそれを理由に
「浅はかな人間や敵意を持った者」であることを
肯定するのはあまりに消極的です。
人間がそれらに関わる形で、「賢明な人間や善意を持った者」で
ある事が出来る要因を準備しておかなければ、
人間は奴隷とかわりません。
「映画とか、ドラマ、歌とか漫画とか」私がそれらを作る人たちが
凄いと思うのは、様々な「感覚」に訴えることができるからなのです。
s says:
8月 28, 2014
「映画とか、ドラマ、歌とか漫画とか」を観たり聴いたりする人の
『「感覚」に訴えることができる 』人達は、
「相手の気持ちになることができる」人達だと思うのですが、
『「感情や欲望、規範意識、社会的立場、文化や習慣、環境等様々な
要因」により複雑に絡み合った人達の心がどのように動きどのような行動をとるのか。』
音楽、台詞、間、映像、様々な演出によって、視聴者の「感覚」を刺激し
その物語の中の人物と視聴者の心の動きを重ねることで、
「物語を経験させる」事が出来る人達だと思います。
物語を客観的に見せるのでははなく、経験させることで
登場人物の心に触れる様な「感覚」を味わうのです。
その触れた心があまりにも美しい時、人は感動するのです。
「触れた心があまりにも美しい時」これを「良心」と言うのではないかと
私は思うのです。
s says:
8月 29, 2014
ここまで書くと、私はそんなにすごい経験を
物語の中でしたことがあるのか。何を偉そうに語ってるんだ。
と思ってしまうのですが、「どれどれそんなに感動できるのか」
「なんだこの台詞は」「またこのパターンか」
とゆうように私自身がとても安易な気持ちで、
作品をみてしまうことがほとんどです。
私は「映画とか、ドラマ、歌とか漫画とか」
次はどれだ、ああアレが新しく出たな面白かった
つまらなかった。次だ。またこれか。
純粋に楽しめたのは子供の頃ぐらいでしょうか。
ある時からそれらを見るのを止めてしまいました。
私には想像力や共感性が人より少ないのではないか
と思う次第です。
そのかわり不思議なのは人の話しや、昔話や、民話や古典
は素直に楽しめるのです。謎です。
長々とコメントしてしまい申し訳ありませんでした。
コモンセンス読んでみます。
ありがとうございました。