英語には「SINK OR SWIM」

(溺れたくなかったら泳げ)という表現があります。

 

泳げない者も

水の中に投げ込まれれば

溺れたくないから必死に泳ぐという次第。

 

ふつうは「イチかバチか」「のるかそるか」と訳されます。

被災地の自立をうながすためにも

復興を順次、自腹でやってもらおうとする発想は

これと似ていないでしょうか?

 

要するに

追い込めば「火事場の馬鹿力」が出るというわけです。

 

なるほど、その可能性もなくはない。

ただし「火事場の馬鹿力」って、

本質的に長続きしないものなんですよね。

 

そして超復興を達成するには

十年単位の時間がかかる。

 

とにかく自立へと追い込めば良いと構えるのは

果たして賢い発想でしょうか。

 

のみならず。

この発想は明らかに

被災地の人々を自分たちから切り離して考える発想の産物です。

 

東日本大震災は、

日本国を「人間」に喩えると、片腕を骨折したようなものだと思います。

未だ復興が成し遂げられていない現状について、我々国民は、

「ギブスを付けたままの状態」

であると認識しなければなりません。

 

これは三橋貴明さんが

昨日のブログ「東日本大震災から四年が過ぎ去り」で記した文章ですが、

そのような一体感があったら

「自立のためにも復興は順次、自前で」と今から言い出すはずはない。

 

それともわが国の政府は、

腕を骨折してギプスをつけているとき

「医療費がもったいないから、ギプスを外してしまおう。

もともとギプスをつけるのは、異例中の異例の措置だ。

ギプスに頼れないとなれば、折れた骨も自立して早くつながるに違いない」

と考えるのでしょうか?

 

超復興への道を歩むために

真に必要なものは何か、

ここまで来ると見えてきますね。

 

そうです。

日本人の社会連帯感を復活させることなのです。

 

そして社会的連帯感なしに

国の保守(=できるだけ望ましい状態を達成・維持すること)はありえない。

まこと、情けは人のためならずです。

 

被災地の方々が

このような現実に負けることなく

超復興へと進んでゆくことを祈りましょう。

ではでは♬(^_^)♬

 

(おまけ)

震災による原発事故をモチーフにした

こんな映画が4月に公開されます。

いずれまた、詳しくご紹介しますが、

とりあえずポスターをどうぞ。

main