日本の漫画は
市民権を得るにしたがって、
支離滅裂、奇っ怪破廉恥、荒唐無稽、
独善茫然自暴自棄、
非道残虐陰惨無法、
狂乱狂恋百鬼夜行(©手塚治虫)
という、
本来の野性的なパワーをなくしてゆきます。
ところが、それと相前後して面白い現象が起きる。
つまりインテリ(の一部)の言動が、
支離滅裂、奇っ怪破廉恥、荒唐無稽、
独善茫然自暴自棄、
非道残虐陰惨無法、
狂乱狂恋百鬼夜行
になっていったのです!!
しかしこれは、考えてみれば当たり前の話。
本来シリアスではなかった、
ないしシリアスであってはならなかった漫画が
シリアスなものとして認められたのですから、
本来シリアスであらねばならない言論が
マンガチックでも構わないということになるのです。
そしてこういう言論には、
それなりの魅力もある。
なぜか。
手塚さんは漫画について
現実にたいする不満や願望を、からかい気分をこめて表現するもの
と述べましたが、
それらの言論にも、くだんの不満や願望がストレートに出ているからです。
ずばり言ってしまえば、読むと溜飲が下がる場合があるんですな。
しかし漫画は、人々のホンネをストレートに表すかわり、
ホラ、デタラメ、荒唐無稽を特徴とするメディア。
言論がマンガチックになるということは、
言論にホラ、デタラメ、荒唐無稽なものが増えるということでもあるのです。
「フランス革命の省察」の著者、
エドマンド・バークさんに、
ここで登場していただきましょう。
バークさん、こう指摘しています。
いわく、
フランス国民議会(=革命派)の面々は、
風刺作家の文章やギャグを真に受けて、
世の中がわかったつもりになっているように見受けられる。
これでは風刺作家のほうがびっくりしてしまうだろう。
筆が立つ物書きの中には、
観念のゲームともいうべき奇抜な表現を好む者もいる。(中略)
つまりは洒落た遊びであり、
スタイリッシュな実験なのだが、
革命派はそうは受け取らない。
奇抜な観念論でしかなかったものが、
国家の最重要課題に取り組む指針として、
大真面目にとらえられてしまう。
(201〜202ページ)
シリアスにはシリアスの良さがあり、
デタラメにはデタラメの良さがあります。
ただし、両者の区別はちゃんとつけるべきでしょう。
でないと。そのうち
「この議論は支離滅裂で奇っ怪破廉恥だから素晴らしい」
と(実質的に)言い出す者が現れるかも知れませんよ。
というか、もうボチボチ出ていますね。
あえて名は秘しますが(笑)。
憲法解釈の変更が解釈改憲ではなく、
デフレ状況にないのにデフレ脱却へと邁進し、
総理が日本経済に悪魔を見出す今日この頃ですから。
ではでは♬(^_^)♬