せっかくだ、もう一つ行くか。

 

先のブログ「私の好きなやりとり」で、エド・ウッドの『プラン9・フロム・アウタースペース』をご紹介しましたが。

この映画、ふつうはサイテーと呼ばれます。

 

しかし私に言わせれば、『プラン9』には何か特別なものがある。

観ていて目が点になるような場面は多々ありますが、決して退屈ではない。

 

ちゃんと出来ていても退屈な映画って、多々ありますからね。

「面白いかどうか」という基準で計るかぎり、『プラン9』はそれらに優っているのです。

 

しかし、サイテーでも面白いとはどういうことなのか?

エド・ウッドに感じられる「特別なもの」とは何か?

 

明快に説明してくれた人がいます。

アメリカの哲学者、マイケル・J・ケラー。

 

「闇の円盤からのメッセージ」という評論で、エド・ウッド映画の魅力を分析してくれたのですよ!

そしてケラーさんが提起したのが「反・天才」の概念。

 

反・天才とは何ぞや。

「次はどんな形で、みごとにハズしてくれるのだろう?」

という期待を抱かせる才能なのだそうです。

 

ふつうの意味で優れた作品に接するとき、われわれは

「次はどんな形で、みごとに決めてくれるのだろう?」

と期待するわけですが、その逆ということですね。

 

なるほど。

クイズ番組で、いつもとんでもない答えをする回答者が、妙に人気を博するのと同じですな。

 

そして系統的にハズすことができるのも、天才の一種。

だって凡人は、どうしたって「当たるも八卦、当たらぬも八卦」になりますからね。

両極端は相通ずと言いますが、天才と反・天才の境界も、けっこう紙一重かも知れません。

 

かつて

「聖者か罪人にしか興味はない。あとは凡俗だ」

と言い切った作家がいましたが、

「天才か反・天才にしか興味はない。あとは退屈だ」

という価値観は成立しうるのではないでしょうか。

 

私が必ずしも、そんな価値観を持っているわけではないのですが・・・

だとしても、エド・ウッドさんの名誉のためにも、これは言いたいですね。

 

運命の糸を引け!

運命の糸を引けっ!!

 PULL THE STRING, PULL THE STRING!!!

 

(元ネタが分かった人、手を上げて!)

 

では、また(^_^)v