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今朝のブログ
「オーメン 最後の経済成長」は、
どういうわけか、非常に投稿しにくかった!!
コンピュータが繰り返し、エラーを表示してきたのです。
これはきっと、
日本経済の悪魔が妨害しているに違いない。
何一つ危険の芽を見逃さずに手を打ってきた・・・って、違うか(笑)。
悪魔にとって最もヤバいのは、悪魔だと見破られること。
逆に言えば、「これが悪魔だ!」と簡単に指摘できるようなものは、たいがい悪魔にあらず、ただのダミーです。
そして悪魔の得意技は、
「これで悪魔を倒すぞ!」と人間を意気込ませておいて、
自分の武器で自分の仲間を殺すように仕向けること。
誰かさんも、そうやって自滅しないといいんだけどなあ。
とはいえ他人の心配をしている場合ではない。
私も用心棒を繰り出すとしよう。
まずはメキシコの死者人形!
ついでに、ヒエロニムス・ボッシュの絵から出てきたこいつはどうだ!!
とはいえ、今気づいたんですが、
この化け物の脚、引き締まっていますね。
ダンスでもやっているんじゃないだろうか?
ゾンビにダンスの素質があることは、
マイケル・ジャクソンの「スリラー」で実証ずみ。
ローリング・ストーンズにも、「ダンシング・ウィズ・ミスターD」なんて歌がありましたな。
(アルバム「山羊の頭のスープ」収録)
「D」はもちろん「デビル」ですよ。
2010年代は、悪魔と踊る時代なのかも知れません。
倒そうとしちゃいけないのさ、一緒に踊ってみせるのさ!
ではでは♬(^_^)♬
2 comments
風前のバーコード says:
7月 10, 2014
歴史的に培われてきたしきたりや慣習が悪魔?
あれあれ!まるで占領軍の司令官か敵国の工作員?
【言いだしっぺが本当は怪しい・・・!】
晋一「おい何か臭くねえか・・・」
平助「あ、ホントだ・・!」
晋一「太郎、お前、屁こいただろ!」
太郎「違えよ~、こいてねえよ!」
晋一「じゃあ、何でお前の方から臭うんだよ!」
太郎「違えよ~、俺じゃねえよ~」
晋一「嘘つくなよ、おまえだろ!」
その後、ケツの臭いをかがせろだの、ズボン脱げだの、ズボン脱がねえのはXXXが付いているからだろ!だの・・・・
後日、クラスで
晋一「太郎、この前、屁こきやがってよ~」
皆 「マジで!」
平助「オイ屁太郎!何とか言えよ!」
太郎「違えよ~、俺じゃねえよ~」
晋一「マジ、お前嘘つきだよな!」
太郎「・・・・・・」
その後も執拗なまでの追及!
最後に、太郎は、「修学旅行のは俺だけど、今回のは違うよ・・・」
すると、
「やっぱり、お前、屁こいてんじゃねえかよ~」
そして当分の間、屁太郎と呼ばれ、蔑まれるようになったのでした・・・・。
いやいや、言いだしっぺこそ怪しいでしょ!
以上
失礼しました
フルート says:
7月 10, 2014
>「何一つ危険の芽を見逃さずに手を打ってきた・・・」
全くポップじゃないネタを知っていた私。(笑)昨日からずっと考えていたのですが、安倍総理と上記の言葉を本に著してしまった憲政史家の方は思考の組み立て方が全く一緒だなと思います。
この憲政史家の方は「疑わしきは決め付けて滅ぼす!」戦法(?)を提唱されている方で、その手法は、彼と彼の支持者らによってネットに於いて実践されています。でも「疑わしきは決め付けて滅ぼす」のですから、1.自分のことは疑わないことにしている。か、2.自分という存在の中にある疑わしきものは「疑わしきは決め付けて滅ぼす法」により既に滅ぼし済みであり、従ってこれから自分が行おうとする行動は真のみなのであり間違いはない、の結局はどちらかの姿を自身にも見ていることに成ります。彼は、7月8日に自身のブログで「XXXXという生き方を選んでよかった」と自身の行動規範(?)を綴っているのですが、しかしどのような生き方であれ、その生き方が周りの人に(或いは後の後代に)引き継がれるか、引き継ぐべきと解釈されるかは、それこそ周りの人からの(或いは後の未来の世代からの)汲み取られ方に係っているのであって、そのとき重視されるものは(或いは引き継ぎたいと思わせるだけの理というものは)、『筋が通っているかどうか』と『全体との整合性が(一定程度)保たれているかどうか』ですよね。
最初それこそ政敵でもなんでもなかった人達を、突然「悪魔」呼ばわりしてみたり(決め付けたり)、「倒す」(滅ぼす)と言ってみたりする前に、その相手とも自分が共有しているものがあって、それは慣習や伝統・良識といった言わばものの使い方にみる作法とも言えるもので、何よりそれは、人間は個人だけでは生きられないのだと言うことを理解できた大人によって構築され修繕されて使われてきたものなのですから、その永く過去から共有されてきた基盤を、壊しても・倒しても・滅ぼしても良いと言うからには、その基盤を築いてきた大人達よりも更に大人であること(これは必ずしも年齢的な意味にのみ限定されるのではなくて公との調和であるとか集合知という意味における大人ですね)というのが前提条件になるはずだと思うのですが・・、大人じゃないですよね・・。だって彼らの行動理念や彼らが自身への叱責・責任を免れるために使っている仕掛け(議員じゃない『民間議員』やら過去からの道理に適うかたちでの論理からかけ離れた感情による『決め付け』などなど)は、自身らの過去の言動をトカゲのしっぽのようにすぱすぱ切り続けて行くことでしか存続し得ないような短期的・即物的『未来』に立脚したものなのですから・・それは確かにある種責任取れませんよね。(未来に自己を置いているんですからね)
大人らしからぬ大人や政治家らしからぬタレント政治家が好まれてしまう時代というものは、やはり筋が通っていない時代ですよね。すごい長文失礼しました・・。難しいですね。