きたる9月30日、
文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に
ふたたび出演します。
じつは私、2009年から2011年まで
ラジオのDJをやっていたことがあります。
インターFM(76.1MHz)の番組
「SOUNDTRAX interzone」(サウンドトラックス・インターゾーン)。
映画・テレビ・ミュージカルなど
なんらかの形で「ドラマ性」を持った音楽を
毎回、特定のテーマに基づいて選び、
私のトークでお送りするというもの。
このときは企画・台本・選曲・DJの四役を務めました。
スポンサーとの折衝もやったので
実質的なプロデューサーでもあったことになります。
おかげさまで好評をいただき、117回やりました。
ちなみに番組でかかった曲は、
トークの背後に流れたBGMも含めて、
すべて私のコレクションから選んだもの。
いや、面白い仕事でした。
このとき学んだのですが
ラジオというのは、テレビよりも出演者の内面がしばしばストレートに出るんですね。
なぜか?
映像がなく、音声だけだからです。
つまり受け手には声だけしか伝わらないわけですが、
声だけというやつ、じつはゴマカシが効かない。
本当に興味をもってしゃべっているか?
自分の言葉に確信があるか?
内容のあるトークになっているか?
そういった点が、モロに浮き彫りになってしまう。
映像があると、表情や身振りが見えるぶん情報量が増える。
裏を返せば、受け手も声だけを集中して聴いているわけではない。
しかも視覚によって得られる情報は、
たいがい聴覚によって得られる情報よりも印象が強い。
だからある意味、ゴマカシが効くのです。
とくに若い女性などの場合
話題に乏しかろうが、
本当はつまらないと思っていようが、
上手に笑顔をつくり、ついでに身体の線をアピールする服装でもしていれば
とりあえず場を持たせることができる。
しかしラジオでは笑顔は見えない。
身体の線は言うに及ばず。
否応なしに声だけで勝負するしかないのです。
カワイイだけが取り柄、みたいな人は
こうなると一発ボロが出る。
つまりは語るべきものがあるかどうかなんですよ。
ここでは若い女性を例にあげていますが
べつに彼女たちがみんな、ラジオ向きではないということではありません。
見た目の美しさにばかり頼っている人はダメという話です。
ついでにある演出家が語っていることですが、
生まれつき悪声の人というのはいません。
歌手や俳優が務まるかどうかはいざ知らず、
自分の心にたいして素直にしゃべっていれば
悪声にならないのだそうです。
自分の心にたいして素直でなく
ゆえに不必要な緊張が入り込むとき、
声は硬直し、悪声になるとのこと。
声だけの世界が非常に奥深いものであることは、
すでにお分かりいただけると思います。
というわけで、ラジオの仕事は大好きです。
とくに「おはよう寺ちゃん」の場合、
司会の寺ちゃんこと、寺島尚正さんが
高い技術と豊富な経験をお持ちのプロフェッショナル。
8月20日、はじめて出演させてもらったときも、
じつに楽しく話すことができました。
今回はさらに面白くしたいと思っています。
「おはよう寺ちゃん 活動中」、ご期待下さい!
ではでは♬(^_^)♬
3 comments
kato says:
9月 28, 2014
了解(^^ゞ
フルート says:
9月 28, 2014
すごく楽しみです!
私は最近、自由の輪郭のことについてよく考えます。いわゆる戦後民主主義的な自由のことを最初私は、『肥大化した自由』・『自由の飽和状態』というような形で表現していたのですが、今ははっきり、『自在に操ることなどできていないのだから、そもそも不自由』というように表現しています。
いわゆるリベラルを自称する人達は、自分達の自由・権利が、政府・国家・歴史伝統によって制限されている!と考える一方、自由と権利は日本国憲法により保障されているんだ!とも訴えます。かたや保守を自称する人達は、日本はアメリカによって歴史を断絶させられた!断絶させられる前の日本はすばらしかった、“敗けるはずのない戦い”だった!(※この『敗けるはずのない戦い』とは、J念氏がチャンネル桜の番組内で使った言葉でもあります)敗けるはずはなかったが、コミンテルンとアメリカはすごいぃぃぃ~!という・・このとてつもない強さととてつもない弱さとの使い分けに、私は心のどこかで断絶を望んでいるのでは・・・と思ったりもします・・・。私は、両者に共通しているのは、自身の自由の輪郭を見失っていること、自身に可能な自由の範囲を超えた自由を自身・他者・あるいは国家ないし世界に既定し、そこに自分を一体化させていることだと思っています。
自分の中にある不自由を素直に自覚すること、直視することからしか本当に自在な表現・自由な表現はできないし、またそうすることでしか佐藤先生やSayaさん、ヴィリー・フーバーさんが持った『本能的な正しさの感覚』を感じ取ることはできないはず、またフーバーさんのチターのような歴史と伝統の成長も、過去・現在を素直な繋がりとして受け止めて理解したからこそ未来へも繋がり得るのだし、自分自身の不自由を直視できない人にみられる一貫性の無さも、このような現在把握ができないからこそ、実際に過去が現在に・現在が未来に繋がらず、一貫性が持てないのでは・・?このように考えています。佐藤先生がおはよう寺ちゃんのレギュラーになったらすごく嬉しいです。絶対に聞きます!
マゼラン星人二代目 says:
9月 29, 2014
顔芸は認めない派?