「感謝」という言葉からは

「共生」「共犯」「同志」といった言葉が連想され、

「謝罪」という言葉からは

「新生」「断罪」「絶縁」といった言葉が連想され、

 

「感謝」には責任が伴うのにたいし、

「謝罪」からはトカゲの尻尾切りのような、責任回避的な印象を受けずにはいられません。

 

昨日も紹介したこのコメント、

とくに太字にした部分が

持つ意味は重大です。

 

謝罪とは責任を取ることではなく

責任を回避することではないのか?

 

少なくとも、

そういう場合もあるのではないか?

 

いわゆる「戦争責任」は、

謝罪することが責任回避になっている

典型的な例だと思います。

 

「あんた、戦争責任の何なのさ?」

(8月20日〜8月25日配信)で述べたとおり、

われわれは「昭和の戦争で被害を受けたアジアの人々」にたいし、

反省・謝罪のポーズを取りつづけることで

日本の正義を信じて死んでいった自国の先達たち、

および日本のために戦ってくれたアジアの人々にたいして感謝する

という責任を回避しているのです。

 

責任を取るふりをして

じつは責任を回避する。

 

なかなかの高等テクではありますが

セコいゴマカシと言われても仕方ありません。

 

戦争の敗北に伴うペナルティ

つまり、本来の意味での戦争責任について

清算がちゃんと終わっているにもかかわらず

「戦争責任」という

他のどこにもない言葉が生きつづけ

それなりの影響力を持ってしまうのも

こう考えれば当たり前の話。

 

ついでにこれは、

日本人が反省・謝罪しつづけている

(ないし、少なくともそういうポーズを取っている)

「戦争で被害を受けたアジアの人々」にたいしても

いかんせん失礼な話です。

 

だって、そうでしょうに。

この人たちは結局、責任回避のためのダシにすぎない。

そして人間、こういうことは敏感に見抜くのですよ。

 

中国や韓国が、昭和の戦争について

謝罪や反省を求めつづけるのには

向こうの国内事情や

政治的な打算、

それに国民性なども作用しているでしょう。

 

しかし日本の反省・謝罪なるものが

根本において欺瞞的であることも

無視しえない事実ではないでしょうか?

 

つづきはまた明日。

ではでは♬(^_^)♬