「表現者」の原稿を書いたり
同じ「表現者」の座談会に出たりしていたら
また何日か空いてしまいましたm(_ _)m。
さて。
メインスタジアムの設計白紙化だの、
エンブレムの盗作疑惑だのと、
ロクな話題のない2020年東京五輪ですが、
ここにきて、
またもやしょうもない話が。
ご存知の通り、
新たな設計に聖火台が盛り込まれていなかったのです。
これについて、
大会組織委員会の森喜朗会長は
以下のように述べたとか。
「聖火台を忘れてオリンピックの競技場を造るというのは、
親が家を建ててあげて子供たちが喜んで入ったら、
トイレも風呂もなかったという感じですよ」
かつての怪談漫画には
某新興宗教のメンバー(若い美人)がある家に勧誘に行ったはいいが
そこでトイレに行きたくなったところ
家のどこにもトイレがなくてパニックに陥る
という内容のものがあったとのことながら
(傍白:それはいったい、どういう漫画だ?)
漫画でやっても目を疑うような内容を
現実でやらかしたというのがスゴいところ。
森会長、かなり興奮していたのか
続けてこうも述べています。
日本スポーツ振興センターという
少し頭のおかしな連中が、聖火台を忘れた設計図を作った。
(組織委員会ばかり批判される傾向があるが)
一番悪いのは馳浩(文科相)です。文部科学省です。
・・・正直、ここまで話が泥沼化してくると
つきあいきれないものがありますね。
森会長、
〈誰が悪いか〉という点
もしくは〈自分や組織委員会は悪くない〉という点を
ハッキリさせることさえできれば
それでいいかのような口ぶりではありませんか。
しかし本当のポイントは
2020年東京五輪を成功裡に開催するには
どうすればいいのか
という点のはず。
つまり森発言には、
言い訳さえできれば、結果はダメでもいいという
困った含みが見られるのです。
さしずめ「言い訳キッチュ」ですが・・・
ここで考えてみましょう。
ここ数年、
政権にとってまずいことが起きると
保守派(の一部)からはどんな声が聞こえてきたか?
いわく、
君側の奸がいる!
悪いのはXX省だ!!
XX大臣(または次官、あるいは大使)は
頭がおかしいか、でなければ反日勢力だ!!!
・・・そうです。
絵に描いたような言い訳キッチュ。
言い訳さえできれば、結果はダメでもいいという次第です。
では、どうやったらうまく行くのか
という話には、ついぞならないんですね。
ですから森会長には
謹んで、こう申し上げておきましょう。
誰が悪いかはもういい! では、どうする!
いい加減にあきらめて開催を返上する
というのも手かも知れませんよ。
1940年東京五輪の前例もあることですし・・・
ではでは♬(^_^)♬
2 comments
Guy Fawkes says:
3月 10, 2016
今回の東京五輪を巡る一連の悶着に佐藤先生の仰る「キッチュ」と「BAD」の見事な例示がされています。
一方でそれにも関連するかはわかりかねますが、明日の震災五年目を前に昨日こんな記事を拝見しました。
「震災5年、防潮堤の予算っていくら? 総延長400キロの巨大事業」
http://seiji.yahoo.co.jp/article/124/
・10メートルは適切か、見直し議論も
「防潮堤の高さをめぐっては、宮城の三陸沿岸を中心に各地で反対が起きています。
地元などから出た批判を受けて、専門家が集まる土木学会はまちづくりや景観を考慮した
見直し作業を進めています。学会の提言が出れば、国土交通省も検討に入る予定です。
学会は2014年秋、「(防潮堤などの)津波対策は、地域の社会経済活動を支えるために行われる」として、
新しい技術や制度を検討する「減災アセスメント小委員会」を設置。
海岸工学者にまちづくりの専門家が加わり、勉強会を重ねてきました。
防潮堤は、高ければ高いほど災害リスクは減ります。
一方、建設費は膨らみ、海の見えない防潮堤がまちの活性化を阻む場合もあります。
フェイスブック等のコメントを見ると、賛成する人々は「命には替えられない」
「喉元過ぎれば熱さ忘れる、五年前を忘れたのか!」と叫び、反対する人々からは「そんなハコモノを作ったところで無駄」「官民談合の典型的利権!国民に重い負担がのしかかる醜い震災ビジネスでしかない」
とのご意見…
いつかやってくる大津波への備えあれば憂いなしなのか…将又、予算と期間に照らし合わせると
割にあわない代物なのか…
これを読みながらどういう訳かわかりませんが、4年前の文春新書から刊行された
中野剛志さんと藤井聡教授の共著「日本破滅論」の一部分を思い出しました。
マゼラン星人二代目 says:
3月 16, 2016
>いい加減にあきらめて開催を返上する
>というのも手かも知れませんよ。
>1940年東京五輪の前例もあることですし・・・
日中戦争クラスの難局に直面しないとなかなかできる選択ではない。というより、今回、たとえ直面しても粛々と開催されちゃうんじゃないでしょうか。
というのも、仮に、福島第一原発のオトシマエなど取るにたらないと考えられているとするならば、「国難」なるものはこの世にそもそも存在しない、ということになるからです。
そのことを思えば、聖火台の設計ミスが一体何ほどのことでしょう。The caulderon is under control とか何とか華麗にスルーされるに決まっている。