わが国において8月前半は
戦争の悲劇を振り返り、
平和への想いを新たにする日々
と相場が決まっています。
とくに広島への核攻撃が行われた8月6日から
ポツダム宣言受諾が公表された8月15日まではそう。
とはいえ、
平和への想いなるものが
本当のところ一体何なのかは、
今ひとつハッキリしません。
「あらゆる戦争は、平和を目的として行われる」
と言ったのは聖アウグスティヌスです。
「平和主義者とは、平和のためならいつでも戦う準備ができている者だ」
と言ったのはジャン・ジロドゥ(20世紀フランスの外交官・劇作家)です。
平和への想いなるものは
ちょっとしたきっかけで
戦争への想いに逆転するのではないでしょうか?
そんな可能性を想像すらできないようでは
戦争の悲劇を振り返り、
平和への想いを新たにする日々
の後にも
(棒)
とつけねばなりません。
それはともかく。
原爆投下に関しては、こんなコメントもあります。
イギリスの映画監督デレク・ジャーマンは1989年、
「ウォー・レクイエム」という作品をつくりました。
「ウォー・レクイエム」は
同国の作曲家ベンジャミン・ブリテンによるミサ曲。
日本ではふつう「戦争レクイエム」と呼ばれます。
80分近くの大作ですが
「ウォー・レクイエム」はこの全編に映像をつけたもの。
つまりは一種のビデオクリップながら、
クラシック系の曲を素材として、
これだけのスケールでやったのは異例でしょう。
しかるに。
映画の冒頭では
介護施設にいるとおぼしい高齢の元兵士
(演じているのがなんとローレンス・オリビエ!)が
車椅子に座ったまま
「地獄での出会い」という詩を朗読します。
これは第一次大戦で戦死した
ウィルフレッド・オーウェンという人物が書いたもの。
「戦争レクイエム」には随所で
オーウェンの詩が使われているのです。
しかるにジャーマンによれば
アメリカの出資者たちは
オリビエが「地獄での出会い」を朗読する場面に
字幕を入れるべきだと主張したとか。
いわく、
オーウェンの言葉は難しくて理解できない。
英語圏以外の観客のために、
それぞれの国の言葉で字幕を入れろと言ったのではありませんよ。
英語圏(主としてアメリカ)の観客のために、
英語の映画に英語の字幕を入れろと言ったのです。
ジャーマンのコメントは以下のとおり。
私のとっさの反応は
アメリカ人は原爆の投下先を間違えたというものだった。
ハリウッドを吹き飛ばすべきだったのだ。
そのほうが、アメリカは世界に貢献することができただろう。
戦後40年あまり(注:映画製作当時。以下同じ)にわたって
ハリウッドのつくりあげた凡庸な映画文化は
われわれみんなに多大な害を及ぼしている。
1945年に原爆を落としておけば、そのすべてを防ぐことができたのだ。
アメリカニズムの本質が
近代主義による歴史や伝統の否定にあるとすれば
このコメントには一理あります。
自国の言葉で書かれた詩が
100年も経過しないうちに
耳で聞いただけでは理解できなくなるというのは
文化的貧困以外の何物でもありません。
広島や長崎に落とされた原爆も
人命や建物のみならず
日本の歴史や伝統を破壊したのかも知れませんよ。
ではでは♬(^_^)♬
4 comments
フルート says:
8月 8, 2016
自分がいま体験している戦争・かつての戦争が、悲惨なものであればあるほど、平和がより尊いものに感じられて来る・・・こういう感覚(というか心理)も人間にはある筈だと思います。でも人間の脳は、たった1~2秒前の事であってさえ、現在の自分の都合に沿う様なかたちに過去を処理したり・加工したりしながらトップダウンで<過去を思い出す>性質も持っていますから、例えば<戦争は悲惨で平和は尊い>、ですとか、<戦後の日本は戦前と違って戦争のできない国→だから平和で尊い国→世界から尊敬されている国>、という様な戦後の日本の図式から考えられている<平和の尊さ>を、実はしっかり審査しない様にする事を多くの人が意図した事から戦争の悲惨さが新たに増して行く事だって(戦争の悲惨さに対する脚色が人々の間でハウリングの様にしながら加わって行く事だって)、戦争への審査が正確にはなされず<戦争の美化>が起こるのと同じ位には起こり得る。ということを思いました。
そして例えばこの様に<戦争の美化>と一口に言っても、その種類だったり内情は、その時点での状況によっても色々な筈だと思いますし、同じ様に、<平和の美化>だって色々な筈だと思いました。例えば戦う姿勢を整えたり、また実際に戦う事によって、得たり・守ったりしたもの(・するもの)だってある筈ですので、本当に戦争の事を考える時には、戦争の悲惨さ、と同時に、戦う事、戦えない事、の意味もしっかり考えるべきだと思いました。
それに..(少し話しが飛んじゃうかもしれないんですけど..)平和記念公園のポケストップと、ジムと、そして最終的には(6日には)ポケモンの出現自体の削除もしたナイアンティック社(米国)に対する広島市のコメント
「原爆死没者の慰霊と世界平和を祈念するための聖地としての位置付けを理解し、速やかに対応してもらい深く感謝している」
も、私は少し変に感じます..。原爆死没者の慰霊と世界平和を祈念するための聖地としての位置付けをナイアンティック社は速やかに理解し、そして対応した(広島市と平和記念公園は対応してもらった)のだとしたって、平和記念公園はナイアンティック社から少し前までその様な理解などされていなかった事に変わりはないのに、どうして広島市は「深く感謝」(それもこんなにすぐに・・)したんだろうって思います..。ナイアンティック社に対しても感じていた筈の憤りや悲しみをすぐに深い感謝に変える事ができたかもしれないのは広島市で、平和記念公園は少し違う様に私には思えます..。<自分達は「深く感謝している」>というコメントをする事によって得られると広島市が判断したかもしれないメリットの内の変な部分を、私は疑いたいと主観的には思っています..。(長文すみませんでした。。)
Guy Fawkes says:
8月 10, 2016
昨日、午後3時、天皇陛下がお言葉を公表致しました。
私には足元がふとして消え去るかの様な感覚を齎しました、特に後半部。
『天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯もがりの行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀に関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。』
不敬を承知で申し上げるならば、私はこのお言葉を聞いた瞬間ある本に記された言葉を思い出しました。
「私はヘラートの町の外れで二万人もの男女や子供が飢えで死んでいくのを目の当たりにした。彼らはもはや歩く気力もなく、
皆が地面に倒れて、ただ死を待つだけだった。この大量死の原因は、アフガニスタンの最近の旱魃である。
同じ日に、国連の難民高等弁務官である日本人女性もこの二万人のもとを訪れ、世界は彼らの為に手を尽くすと約束した。
三ヵ月後、この女性がアフガニスタンで餓死に直面している人々の数は百万人だと言うのを私は聞いた。
ついに私は、仏像は、誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は、恥辱の為に崩れ落ちたのだ。
アフガニスタンの虐げられた人々に対し世界がここまで無関心であることを恥じ、
自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ。」
これはテヘラン出身の映画監督モフセン・マフマルバフ氏が同時多発テロのあった2001年に出版された書簡集にあった言葉です。
彼はイランで最も賞賛されている映画人の1人で、タリバン政権下のアフガニスタンを描いた『カンダハール』
近年ではとある独裁国家の大統領の辿った逃亡劇を描いた『独裁者と小さな孫』という映画を作っています。
そこで本題ですが…私が先の陛下のお言葉を聞いてマフマルバフ監督の言葉を提示したのは
『陛下が我々国民を慮ってくださっている!』という安直な温情論などでは全くなく、
『遂に陛下自らによって近現代日本の欺瞞を白日の下に暴き立てさせてしまった…』という大いなる虚脱感を感じるのです。
私の祖父母は71年前の昭和天皇の敗戦宣言を聴いたと云います、似た様な事を述べている方々もツイッター上で拝見しますが
今回のお言葉は大袈裟でもなんでもなく平成の玉音放送なのではないでしょうか…!?
玉田泰 says:
8月 10, 2016
戦争が文明の一側面であるという認識を、文明の暴力装置自体が吹き飛ばしてしまったのでしょうか…皮肉な話ですが。
そして我々日本人は思考停止に陥り、戦争の悲惨さを声高に述べることのみが抑止力であるかのごとき土着信仰に似たモノを生み出したのかも知れませんね。ハリウッドのきらびやかさとはウラハラに。
僕らは、原爆を投下された当事者としての発信を、未だ十分に成し得ていないのでは?
せい says:
8月 10, 2016
前回のガンダムの例に習って、平和を叫びながら新しいガンダムを待望し、新しい兵器や設定、アクションシーンに魅了され続けるファンのようなものでしょうか