11月19日のブログ
「国家にたいする反抗と愛着」について、
ソウルメイトさんという方から
興味深いコメントをいただきました。
ご紹介します。
人間というものは、
内部に矛盾を抱えた本来、アンビバレントな存在なんじゃないかと思います。
つまり、愛憎相半ばするというような割り切れない感情を持つのが正常な人間であって、
論理、あるいは、イデオロギーみたいなもので規定されるようなものではないと思います。
だから、天皇を崇敬しつつも共産主義に傾倒する人がいても別に不思議ではないし、
逆に言えば、天皇を崇敬しているんなら、共産主義に傾倒するのはおかしいとか、
共産主義に傾倒する者は、天皇を崇敬してはいかん、とか言うほうが間違っている、
とわたしなんかは思います。
要するに、人間というのほ、けったいないきもので、
なんでもありな、非常に多様性と多義性に富んだ存在なんじゃないのかなと思うわけであります。
世の中、あまりに「何でもあり」になってしまうと、
それはそれで問題が生じるとは思います。
しかし割り切れないものを
あまり割り切ろうとしすぎても、
やはり問題が生じるでしょう。
論理やイデオロギーで言えば、
「何でもあり」が過剰になればツジツマが合わなくなる。
逆に「割り切り」が過剰になれば硬直するわけです。
そして「両極端は相通ず」という格言通り、
両者は往々にして表裏一体。
あるレベル(=自分に都合の良いこと)については「何でもあり」過剰で、
別のレベル(=自分に都合の悪いこと)については「割り切り」過剰というのが
イデオロギーの陥りがちな弊害なのです。
となると保守主義がめざすべき境地は、
「何でもあり」に陥る危険を回避しつつ
多様性や多義性をできるだけ受け入れる
ということになるでしょう。
闇鍋にならない範囲で、できるだけ具を多くする。
そんな形容もできると思います。
実際、「国家にたいする反抗と愛着」でも述べたように
左翼とされる人々にも
意外と保守的・愛国的な心情がひそんでいる場合がある。
この心情が、もっとストレートな形で表されるようになれば
いわゆる「反日的」な主張も、
おのずから変わってくるかも知れません。
これはこれで、
日本の保守 (=できるだけ望ましい状態を実現し、それを維持すること)に
大きく貢献するのではないでしょうか。
ではでは♬(^_^)♬
11 comments
NOA says:
11月 29, 2014
はじめてコメントさせていただきます。
今回佐藤先生が紹介されたコメントには、今まで感じたことがないほどの虚脱感を覚えました。
自分の感想を書く前に、まずは中野剛志先生のイギリス留学中のエピソードを紹介させてください。
『どの教官も、(中略)相対主義的な態度そのものを極端に嫌い、学生たちを厳しく戒めていた。ある温厚な教授が、「だれそれの意見もいいと思うし、それと対立するだれそれの見解があってもいいと思う」と発言した学生に対して、突如、烈火の如く怒り、「君の態度は、学問を冒涜するものだ。そのような相対主義的な態度をとるのであれば、私のクラスから出て行きたまえ」と強く叱責したこともあった』(中野剛志『考えるヒントで考える』45ページ)
私はこの記述を読んだとき、滅多にないほどの共感と感動を覚えました。
もちろん私も、物事には原則と例外があることや、どれだけ支配的な制度や思想であっても、それが常に対抗的な力によって生成変化していくものであることなどは、(理屈としても感覚としても)理解はしているつもりです。
しかし、そのことと、
「AもBも両方あっていい」とか
「Aの立場からBの立場を間違っていると言うこと自体が間違っている」とか
そういう相対主義的な主張することは、完全に違うことだと私は確信しています。
ここ数年、私は佐藤先生や中野先生の主張に共感してきました。
うまく表現はできませんが、お二人の思想的立場はもちろんのこと、その思想の柔軟性や懐の深さ、もう少し具体的に言うと、対抗的な思想を常に絶対的な排除対象とみるのではなく、それらに目配せしながら自らの立場を築き上げていこうとする視野の広さに対してです。さらに一言でいうなら、不断に思考し続ける(=考えることをやめない)姿勢そのものに共感を覚えてきました。
逆にいうと、昨今の「いわゆる保守」の方々の思考の硬直性には、些かうんざりしておりました(左翼のほうは言うに及ばずですが・・)。
そういう私から見ますと、今回佐藤先生が引用されたコメントは、その「うんざり」の極めつけです。
彼の主張は、「多様性」「多義性」といった言葉で柔軟性を装おうとしていますが、その内実はただの硬直化した相対主義にすぎません。
共産主義と天皇制が簡単に接続可能な思想でないことは明らかであるにもかかわらず(もし本気で両者を接合しようとすれば、たとえばどちらかの根幹的価値を譲るなどの多大な思想的努力が必要になるであろうにもかかわらず)、そういった全ての困難を「多様性」や「なんでもあり」といった言葉で覆い隠して(誤魔化して)、つまりは考えることをそこで全部打ち止めにして、あらゆる思想的困難を解消してみせた気になっているだけのことです。
彼がしているのは、思想の多様性の擁護などではなく、ただの思考停止です。
こういう「何でもアリ」的な意見を言う人が巷には本当に多いですが、彼らは他者の思想の尊重など本気で考えてはいません。本心ではそうなものはどうでもいいとしか考えていないはずです。彼らが口を開けば「何でもいいと思う」と言うのは、他者を尊重したいのではなく、ただ単に「それ以上考えるのが面倒くさい」だけなのです。
私はこういう「思想」に接するたびに、こんな相対主義者たちに比べれば、素朴な人権主義者や平和主義者や○○原理主義者たちのほうが100倍マシだぁ、とそう感じてしまいます。「マシ」というのは、強い信念を持った人間のほうが、まだしも信頼できそうな気がするという意味です。
強い信念を持たない、あるいは口を開けば「何でもいいと思う」なんて言っている人間が、究極的なところで自分とは異質な他者(=たとえばこの私)を守ってくれるとは到底思えないからです。
他者をねじ伏せてでも、場合によっては殺してでも守りたい価値(思想)を持たないような人間は、結局、究極的には他者の思想を尊重することもできないのではないでしょうか。私はそう思います。
たかゆき says:
11月 29, 2014
思想とは 何ぞや♪
そして
宗教とは、、、
思想は宗教の範疇に属するもの と
ぼくは認識しております。
毛唐がどんな宗教(思想)を崇拝しようと
ぼくの知ったことではございません。
天武天皇はシナの原初神「太一」と
天照大神を合一させる
離れ業をなさったようです。
毛唐には到底できないことでせう。。。
日本人には日本人の
「DNA」が連綿と受け継がれております
毛唐の「思想」で烈火のごとく叱られ
恥じいることは
日本人の「DNA」に誇りをもたず
彼らの「思想」のみを崇拝する
今の政権や官僚その他諸々と
おなじレベルかと。
日本には日本の伝統がありますし
世界にはそれぞれの
伝統や宗教 思想がございます。
己の思考方法や宗教のみが
絶対と考えるのは
傲慢でございませう。
イギリスやアメリカの伝統や思想が
世界基準ではありえるはずはないと
僕は愚考するしだいで
ございます。
たかゆき says:
11月 29, 2014
ついつい
向になって偉そうなことを
言ってしまいました。
ふだんの僕は(いつもですけど)
ただのアホでございます
お赦しあれ
ヨトキチ says:
11月 29, 2014
信念とはなにか?
それは立ち止り固定した思考のことであり、
「信念の人」とは偏狭な人間のことなのである。
ミラン・クンデラ
受け売りで申し訳ない。
シージャック says:
11月 29, 2014
>ヨトキチ
受け売りで申し訳ない?
受け売りではない言葉を発する人なんているのでしょうか。
どんな言葉でも何者かの影響を受けているものではないのでしょうか。
ヨトキチ says:
11月 30, 2014
どんな言葉でも何者かの影響を受けている。
はい、確かにおっしゃる通りです。
ただ私の場合はミラン・クンデラさんの言葉をそのまま引用しただけであり、
そのうえ名前まで使わせてもらったわけであります。
そう考えてみますと、「受け売りで申し訳ない。」と申したのは、
どうやらそれは引用させてもらったミラン・クンデラさんに対してであり、
勝手に引用させてもらって申し訳ないという気持ちであったことに気付きました。
なぜ自分がそのように表現したのか明確に自覚していないこともあるものですね。
ご指摘ありがとうございます。
akkatomo says:
11月 29, 2014
相対主義と事実としての多様性は異なるものでは?
何というかな。主義主張、イズム、学問等々、
そういう認識のモデルで括ると首尾一貫性がないと破綻するかもしれないですが、
現実はそもそも学問という、ある限定されたモデルを超え出るものだと思いますよ
個人がどれ程その思想を大事に思っていようが、それに当て嵌まらない事態というのは
当然に生じてくるものでしょうし、それでいいのだと
そして、その結果として事実としての多様性が存在している
それはどちらもいいじゃない、という相対主義とはまた別だと思います
どうも世の中の全てを一定の学問でのみ解釈しようとすると、
角を矯めて牛を殺すといった事になるかと思うのですがいかがでしょ
意見は色々ある、というよりは人間の限定を超えて現実は在るんじゃないでしょうか
人間の意見や考え方はどうあれ、目の前で実際に多様性が有るならば、
それが何故か、ということを考えていきたいものです
無理に言葉に落としたので、どうも文が乱れておりますが、失礼
akkatomo says:
11月 29, 2014
追記:思えば、思想的な困難というのは、ある思想という一つのモデルで
目の前の現実を記述しきれない、という事なのかもしれません
例えば、絵の中の虎を捕まえてみよ、とか棒で豆腐を切れ、といった所でしょうか
しかし、心配ご無用。こんな時の為に昔の人はいい事を言った。
考えるな、感じるんだ!直観ってそんな風に得られるのかもしれませんし、
或いは出来ないならできない、それは人間の限界だ、と受容してしまうのも
ひとつの手ではあるのかもしれません
結局問題は人間という存在に帰着するように考えています
NOA says:
11月 29, 2014
私のコメントに反応していただいたのでしょうか。
あまりの長文失礼いたしました。
おっしゃるように、人間の多様性・両義性の問題と相対主義の話は少し違うと私も思います。
佐藤先生が引用されたコメントの文面でいえば、前半部分の「人間は内部に矛盾を抱えたアンビバレントな存在云々…」というあたりは人間存在の両義性を語っているように思えます。
しかし、後半部分の共産主義でも天皇制でも云々…というあたりになると、もう完全に無節操な相対主義が顔を出していると私は考えます。
私が書いた一番上のコメントでは、もっぱら後者(相対主義の話)のみを採り上げましたが、実をいうと私は前者の両義性の議論に対しても違和感を持っています。私にとっては前者(両義性問題)も後者(相対主義問題)も究極のところ同じ問題だと感じたもので(あとそれでなくてもコメントが長くなりすぎたので)、それで後者に絞ったわけです。
私が人間存在の両義性の指摘自体に違和感を覚える理由は、それが間違っていると感じるからではありません。そうではなくて、一言でいえばそんなものは正しいに決まっているからです。そんな誰からみてもどこも間違っていないような主張をしたところで、それでは何を言ったことにもならないからです。「人間ってアンビバレントだよね~」というのは、端的に「正しすぎる」からダメなのです。
もちろん、人間がアンビバレントだという指摘が状況にぴったりフィットする場合もあるとは思います。たとえば酒の席で友人を励ますときに、しんみりと「人間っていろいろだよねぇ…」と言ってみせることが(完全に中身ゼロの空疎なつぶやきだとはいえ)必要な場合もあるでしょう。文学などで人間の究極の「アンビバレントさ」をこれでもかというくらいしつこく描くことが価値を持つ場合もあると思います。
しかし、そういう「どこも間違っていない究極的な真理」は、それを語る時と場所を慎重に選ばないと、ただの「正しすぎる」だけの陳腐な主張になってしまいます。
「正しすぎる議論」がなぜいけないかというと、何よりも、正しすぎる議論は議論それ自体を封殺するからです。そこで議論が止まってしまうからです。「人って深いよねぇ~」とか「人ってそれぞれだよねぇ~」といった(言葉の選定が適切ではないかもしれませんが)いわば小市民的道徳みたいなものは、通常、話を継続するためのものというより、そこで話を打ち切るための道具として使われるものです。私はこういう「一挙解決的」な発言にどうしても馴染むことができません。そこに思考の怠惰をみてしまうからです。
たとえば、マルクス主義を奉じながら同時にキリスト者であることは、通常は不可能でしょう。でも、イギリスには実際にそういう思想家がいるようです。ここで大事なのは、マルクス主義とキリスト教を接合している思想家が実際にいるという事実ではないと思います。大事なのは(真に議論する価値があるのは)、マルクス主義とキリスト教という一見水と油の思想を繋げるにいたった彼の思考プロセスそのもののほうであるはずです。
そのプロセスを全部省略して、マルクスとキリストを結婚させるのもアリだよねという究極の結論を一挙解決的に提示してしまうのは、さすがにあまりにも状況を弁えない安易な議論なのではないでしょうか。
特に日本人には、そのような一挙解決的思考に頼りすぎる傾向があります。
欧米人のように、議論に議論を重ねて、殴り合いの喧嘩もして、その上で最終的に「人間っていろいろだよね」という結論に至るのならまだ分かりますが、日本人が口にする多様性や両義性の思想というのは、ほとんどの場合、そういうそういう面倒な議論を全部スキップして、一挙に結論までワープしようとするものです。日本文化論としてよくある「八百万の神がどう…」とか「日本は多様性を受け入れる寛容な文化がある」とかという主張からはじまって、硬いところでは西田哲学に至るまで、日本の思想というのはこういう一挙解決的な結論をもって、世界に対してそれこそ一挙に優位に立ってしまおうとうという歪んだ優越意識に支えられているような気がしてなりません(ここは完全に個人的な感想です)。私も瞑想をやっているので、西田の言っているような「私が世界を認識しているのではなくて、世界のほうが私を…」みたいな感覚も少しくらいは理解できます。きっとそれは西洋思想の侃々諤々の議論に優越する「正しさ」をある面において持っているというのも確かでしょう。でも、そういう一挙解決的な「正しさ」で世の中を一刀両断しようとしたときに、一体どんなことが起きてしまうのかは、我々日本人のよく知るところではないでしょうか。
長々と申し訳ありませんでした。
私が申し上げたかったのは、人間存在の両義性の主張というのは、よほど吟味して使わないと(特に日本人の場合)すぐに相対主義的思想に繋がっていってしまうということです。その意味で、前者と後者は無関係ではないと私は思います。
件のコメントは、前者の「正しさ」を意味のある形で使えていません。それどころか、おそろしく陳腐な相対主義の表明で終わってしまっています。これでは前者の「正しすぎる」主張もまるで意味をなさない。以上が私の考えです。
※あとこれは余談ですが、両義性も相対性も、究極的には何にも間違っていないことを言っているがゆえに(完全に「正しい」がゆえに)、発言者の責任が全く問われない(だって間違わないんだから)という点も大問題だという気がしています。
akkatomo says:
11月 30, 2014
成程。ちょっと今はブランデーが入っているので伝法な解釈になってしまいますが
日本人にとっては相性が良すぎるが故に使用に注意
当たり前すぎるが故にそれを持ち出す際には注意が必要
その上で、個々別々の事例が、何故そうなったのかの探求が重要と理解しました
ただ、その上で再反論になるのですが、
当たり前過ぎる事と言っても、当たり前過ぎるからこそ、陳腐であるからこそ
繰り返し繰り返し語られなければならない、とも思うのですよ
今現在が、その当たり前過ぎる事が語られなくなっているという事情もさる事ながら、
当たり前であるという事はとても強い地盤であるべきであるように思うのです
まぁ、しつこいとか陳腐であるという意見は重々承知ですけれども
退屈な程に正しい事柄は、本当に誰の口にも上るべきで
それを覆すような言説のほうが普通になってしまうのは
一種の倒錯でないかな、と
NOA says:
11月 30, 2014
私としては、そこで議論が終わらないのであれば、「あたりまえのこと」を繰り返し語り続けることは(たとえば道徳論などでは特に)必要だと思います。その点でおっしゃることに異論はありません。
私が問題にしているのは、その「あたりまえ」をゴールに見立てて、それを出したら最後、まるで黄門様の印籠のように、話をそこで強制終了にしてしまう日本人の思考習慣です。
この場合、印籠が出たから強制終了になるのではなくて、むしろ、話を強制終了するための便利な道具として印籠は利用されているわけです。
ただ、それ以前に、これは私の価値観ですが、日本人は安易に印籠を出さないで、もっときちんと議論する習慣をつけたほうがいいのではないかと思います。
「倒錯」というのはその通りと思いますし、そういう倒錯なしで社会生活が営まれていた時代に対する憧憬もあるのですが、しょせんこの時代は、時代自体が倒錯しているわけです。
そんな中で、思考形態だけ真っ直ぐにしようというのは、やっぱり無理があるんじゃないか。というか、人類はたぶんもう永遠に真っ直ぐにはならないんじゃないか。それでいいし、またそのことにも意味があるんじゃないか。・・・とそんな風に私は考えます。