昨日の記事
「失敗か、大失敗かの二者択一」では
現政権に都合が悪いことが起きたとき
その支持層が使いたがる弁明のレトリックを取り上げ、
問題点を指摘しました。
簡単に言ってしまえば
どのレトリックも
物事を良くしてゆくことに結びつかず
むしろ負け癖をつけてしまうのがよろしくないのです。
し・か・し。
負け癖をつけてしまうようなレトリックを使うのは
べつに現政権の支持層だけではない。
現政権に反対する層もやっています。
その良い例が
昨年の流行語大賞にもなったフレーズ
アベ政治を許さない。
作家の澤地久枝さんが考案したフレーズとのことですが
これについては赤杉康伸さんという方が
以下のコメントをしています。
「安倍政権批判」「安倍内閣打倒」ならば分かるけど、
「アベ政治を許さない」という言い回しは、個人的に嫌な感じを受ける。
政権・政策批判というよりは、
安倍晋三氏個人への悪意が感じられる点で。
安倍氏の滑舌の悪さを揶揄したり小馬鹿にする人達から受ける印象と、同種の嫌な感じ。
なるほどなるほど。
けれども、私が注目したい点は他にあります。
内閣支持率や、過去三回の国政選挙の結果を見るかぎり
わが国には「アベ政治を許している」人のほうが
「アベ政治を許さない」人より(かなり)多い。
そのことの是非はとりあえず問いません。
問われるべきはこれ。
「アベ政治を許さない」と叫んでいる人々は
アベ政治を許している国民についてどういう態度を取るのか??
そんな連中もやっぱり許さない!! と言うのであれば
これは「日本国民の多数派を許さない」と叫ぶに等しい。
なかなかスゴい論理ですが
この態度で多数の支持を得るのは無理でしょう。
逆に、国民はアベ政治の被害者なのだから
たとえアベ政治を許していても許す!! と言うのであれば
これは「アベ政治を許したくないが、実際には許すしかない」と叫ぶに等しい。
国民の多数がアベ政治を許すかぎり、アベ政治は続きますので。
要するにこのスローガン、どちらに転んでも
自分たちの政権批判が世に受け入れられないことが前提となっているのですよ。
みごとな負け癖ではありませんか。
だからというわけではありませんが、
流行語大賞の選考委員会は
「アベ政治を許さない」に関し、非常に興味深い論評をしました。
いわく。
このフレーズは、要求ではない、追求でもない、つぶやきだ。
強要しないつぶやきが、これまでのイデオロギー対立では現れてこない層に共有された。
多様な意見を包み込む、囲わないゆるさで効果を見せてくれた。
すると「アベ政治を許さない」というのは
退陣の要求でもなければ
政権打倒の追求宣言でもなく、
「オレはあの総理がキライだ」という独白にすぎないわけですな?
ついでに多様な意見を包み込む、囲わないゆるさがあるそうですから
「アベ政治を許さない」と主張している人が
選挙で自民党に投票しても
それはそれで良い、ということになるのでしょう。
だって(賛同を)強要しないつぶやきなんですから。
こうやって、負け癖は染みついてゆくのでありました。
ではでは♬(^_^)♬
5 comments
たかゆき says:
1月 6, 2016
レトリック♪
レトリックには二種類の要素があるようですね
理論的な要素と
感情に訴えかける 詩的な要素
ちなみに プラトンはレトリックの
詩的要素が 大嫌いだった とか、、、
さて
「アベ政治を許さない」
この 呟きからは
呪詛の 香りが ぼくには感じられます。
総理を呪詛なさっている 僧侶の集団も
おりましたっけ。。。
いっそ
「安倍晋三を赦さない」と言ってもらったほうが
表現としては すんなり くるかも。
「アベ政治を許さない」を 赦せない方々は
きっと
プラトンと 同じ感性を有しているのだ♪
SATOKENJI says:
1月 6, 2016
呪わずにいられないということは、
合理的な手段では勝てない(と思っている)ということでしょう。
たかゆき says:
1月 6, 2016
御意♪
合理的な手段で勝てないなら、、
その 呪を
もっと 昇華させて
せめて ぼくを 唸らせるぐらいの
詩的表現をしていただければ と
思っております。
政争に敗れて 素敵な詩や書画を残した
支那の文人のように。。。
フルート says:
1月 6, 2016
産経ニュースの3ページ目にある
選考委は「アベ政治を許さない」という言葉の選考理由について、「このフレーズは、要求ではない、追求でもない、つぶやきだ。強要しないつぶやきが、これまでのイデオロギー対立では現れてこない層に共有された」「ヘルメットにタテカン、アジ演説という昭和のアイテムとは違う、多様な意見を包み込む、囲わないゆるさで効果を見せてくれた」
という選考委の言葉は、読み方によっては、
『“昭和のアイテム(ヘルメットにタテカン、アジ演説)”に自分がなったり(←その様なアイテムとして用いられたり・その様に見られたり)・その様なアイテムを用いたりしていた人達“以外の”多様な意見が包み込まれた』とも読めたり、
また昨年のシールズデモなどには60年・70年などの従来からの安保闘争にも係わっていた人達も多数参加していた、という事実をもう一度意識しつつ読んでみたら、
『“昭和のアイテム≒囲い”だった人達も今は囲う事をやめ、包み込まれた』とも読めたり、
『囲わない中へ囲いを多様な意見として包み込んだ』とも読めたりと、
自分の主張を自分でしっかりとは説明できないところに(都合に合わせてどの様な形としてでも解釈できてしまえる様な説明になってしまっているところに)、自分で呼びかけた「『アベ政治を許さない!』国民の一斉行動デー」にゆかりのある『アベ政治を許さない』を自分で新語・流行語大賞トップ10に選び且つ「新語・流行語大賞は日本の社会の現実を映す鏡。日本の社会がトップ10の中から見えてくる。選考委員は、歪みのない現実を映す鏡を作ったつもりだ」(←産経ニュース1ページ目)などなど“多様な意見”の中に自分があるのではなく自分が気に入った意見だけを“多様な意見を包み込める自分”の中に聞き入れたり・日本の社会の現実の中に“新語・流行語大賞トップ10という自分で作った鏡”があるのではなく“自分が作った鏡の中だけから”日本の社会の“現実”を見せよう・見ようとする様な自分勝手さを感じてしまいました。またこれは3ページ目の「多様な意見を包み込む、囲わないゆるさで“効果を見せてくれた”」という自分好みの見え方からの“効果”は見えても自分の姿については本当のところ直視しようとはしないしできない主体性の無さ(これは何も戦後左翼だけじゃなくて産経新聞も含めた戦後保守にも言える事なんだと思います)とも繋がりがあると感じました。
私の考える“主体性”とは、“アイテム”や“イデオロギー”などの様な関係性の中でしか存在できなかったり・またこの様な関係性も確かに含んでいても、決してそれだけではない実体としての自分の主張・身の処し方などの事で、“囲い”という言葉を、例えば“主体性を持った事によって可能になった立ち振る舞い・そしてそれが可能でいられる範囲の事”と言い換えたら、実は“囲い”が無い場合も自分・相手ともに判らなくなって危険で、むしろ“囲い”は“常に新しく”持ち続けないと行けない、とも思えました。
フルート says:
1月 6, 2016
すみません一か所だけ訂正をさせて下さい。。
最後の段落の1行目の
“アイテム”や“イデオロギー”などの様な関係性の中で~
の部分を、
“アイテム”や“イデオロギー”なども含んだ関係性の中で~
へ訂正させて下さい。。失礼いたしました。。