昨年12月25日の記事
「三橋貴明さんの大忘年会・ツーショット編」で触れた話題ですが、
今や大学では国際化ならぬ英語化の波が押し寄せ、
学生寮を「ドミトリー」と呼ぶに至っているとか。
意味はまったく同じなんですよ。
「寮」ではダサくて
「ドミトリー」ならカッコいいとか、
そんな思い込みでもあるのでしょうか?
施光恒さんはこの傾向を憂えていますが、私も同感です。
英語が出来ること自体は大いに結構ですが、
それは母国語たる日本語がちゃんとしていることを前提としての話。
「日本語がちゃんとしている上で、英語もできる」と、
「日本語そっちのけで、英語化ばかり進める」ことの関係は
要するに
「経済再生」と「景気回復」の関係の言語版と呼べるでしょう。
しかるにこれについて、面白いコメントがありました。
いわく、
まるで現実がアニメの世界になってきたように感じられてしまう。
日本人は、現実とアニメ(虚構)の区別がつかなくなってきているのではないか。
フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールは、
1960年代半ばの時点で、すでにこう語っているのです。
イメージと言語の干渉作用はますます頻繁になる。
だから極端に言えば、
今日の社会において生きるとは、
ほとんど巨大なマンガの中に生きるにひとしいのだ。
(「彼女について私が知っている二、三の事柄」より)
たしかにマンガは、絵と台詞で構成されるもの。
マンガのインパクトは、ゴダール風に言えば
「イメージ(絵)と言語(台詞)の干渉作用」から生まれます。
「ドドドド」とか「シュパッ!」といった擬音など、
まさにイメージ化された言語でしょう。
しかるに、この干渉作用が頻繁になるということは、
現実を正しく理解するためにイメージが使われるのではなく、
前もって存在するイメージにあわせて現実が加工されることを意味するのではないでしょうか?
そう言えば、例のイスラム国が公開した画像についても
加工処理されている可能性が指摘されていますね。
言葉とイメージに関する考察なしに、現実を理解することは今や不可能なのかも知れません。
この話、まだ続けます。
ではでは♬(^_^)♬