4月22日の記事
「経世済民なき増税断行、または財政健全化キッチュ」について
福岡ワマツさんから、こんなコメントがありました。
稲田氏は「道義大国実現」という
高邁な政治理念をアピールしておられますが(公式HP)、
「不況期(又は震災時期)に増税」という判断には、
さぞ立派な「道義」があるのでしょうね。
一方で、「キッチュ大国実現」にはまた一歩近づいているように思えます。
(これは抜粋です。全文は「経世済民なき増税断行」のコメント欄をどうぞ)
道義大国と
キッチュ大国という
フレーズの対比が面白いのですが、
問題はこの二つ、
果たしてどこまで異なるか? という点。
『戦後脱却で、日本は「右傾化」して属国化する』で述べたように
政治用語としてのキッチュは以下のように規定されます。
1)明らかに無理があるタテマエを、
2)〈みんなが共有している(はずだ)〉という点を根拠に「崇高にして達成可能な、美しい理想」のごとく絶対化し、
3)そのような姿勢を取るうえで都合の悪い一切の事柄を、汚物のごとく見なして排除したがる態度。
しかるに。
「崇高にして達成可能な、美しい理想」のごとく見なされる以上、
くだんのタテマエは多くの場合、
道義的な要素を持っています。
ただしキレイゴトの性格も強いため、
現実の社会に当てはめようとすると
弊害のほうが(はるかに)大きかったり、
破綻をきたしてしまったりする。
この点を無視するか
そもそも気づかないまま、
キレイゴトに過ぎる道義を無理やり現実に当てはめようとするのが
キッチュの重要な特徴です。
たとえばフランス革命は
自由・平等・友愛というキレイゴトを
無理やり現実に当てはめようとした試みと見なせるでしょう。
社会主義体制なら
平等と連帯というところでしょうか。
稲田政調会長がこだわっている
財政健全化キッチュの根底にも
借金はできるだけしないほうが良い
という一種の道義性を持ったタテマエがひそんでいます。
国債を自国通貨建てで発行し、
その国債のほとんどを自国民が引き受け、
しかも経済がデフレ状態にある政府に
上記のタテマエを当てはめるのは適切ではないというだけの話。
つまりキッチュとは
バランス感覚を欠いた道義へのこだわりとも規定できるのです。
となると「道義大国」と「キッチュ大国」の差異も
十分なバランス感覚があるかどうかだけということに!
キッチュの克服が容易でないのは
こんなところにも原因があるのでしょうね。
ではでは♬(^_^)♬