21日に亡くなった
西部邁先生の葬儀が、
昨日、代々幡斎場で行われました。
ちなみに23日にはここで通夜が行われ
藤井聡さんが弔問したとのこと。
「表現者」を引き継いだのですから
当然ではありますが、
この先、彼は「西部先生の遺志を継ぐ」という
重責を担うことになる。
でなければ創立者を裏切ったことになってしまうのです。
「表現者クライテリオン」、
なかなか厳しい船出となったと言わねばなりません。
それはともかく。
葬儀のほうの参列者は親族が中心の様子で
表現者関係と言えば私と富岡幸一郎さんくらい。
富岡さんも「クライテリオン」にはあまり関わらないでしょうから
私が「クライテリオン代表」のような形になりました。
先生の最期についてうかがった話は以下の通り。
20日の夜、
先生はお嬢さんと新宿で飲んだあと、
「人と会う予定がある」と言って立ち去った。
しかしその後、連絡がないので
もしや、という話になる。
どうも先生、
自殺の場所となった田園調布のバス停付近について
「あそこは死ぬのにいい」と話していたらしいんですね。
で、場所の見当がついた次第。
入水したあと
流されて行方不明となってしまわないよう
近くの木にロープを巻きつけ、
それを自分の身体にくくりつけてあったとのこと。
周到に準備されていたのです。
棺に納められた先生の遺体は
安らかな表情を浮かべていました。
周囲には花のみならず、
最近の著書や掲載誌、
さらには若き日の先生が
結婚前の奥様に宛てた手紙を収めた箱などが入れられています。
私も先生の額に手を当てて
お別れしてきました。
向こう側で父が待っています。
村上(泰亮)先生も待っているでしょう。
また議論の相手をしてやって下さい。
やがて先生の棺は火葬場へと消えてゆく。
われわれは焼香したのち、
控室でしばらく待ちました。
そして約45分後、
先生は遺骨となって戻ってきます。
私も骨を拾いました。
思えば西部先生と出会ったのは
33年前の1985年。
1988年、東大を辞めるきっかけとなった
いわゆる「中沢事件」のときは
夜、私の家に来て
父と飲んでいたこともあります。
それから「表現者」にいたるまで
二代のご縁となったわけですが
こうやって見送ることになるとは。
日本の国運も、
この33年間のうちに
繁栄から衰退へと変わってしまいました。
先生が去られた今、
行く末を見届けるのは
われわれの世代の役目となります。
はたしてわれわれは
次の世代に何を残してやれるのか?
さようなら、西部先生。
最後に敬意と愛情をこめて
G・K・チェスタトンのこの言葉を贈ります。
現代を背負って立つ大思想家連中は
われわれにこう説いて聞かせたものである、
誰かがピストルで自分の頭を撃ち抜いたからといって、
その男のことをうっかり「かわいそうな奴」などと言ってはならぬ、
なぜなら、
その男はうらやむべき人物であり、
頭を撃ち抜いたのは、
その頭が並外れて優れていたからにほかならない、と。
ここまで来ると、
私はみずからリベラリストだとかヒューマニストだとか称する多くの人々が
どうにも許しがたいもののように思えてきた。
自殺は単に一つの罪であるばかりではない、
それこそ罪の最たるものである。
このうえない、
そして全く酌量の余地なき罪であり、
生命そのものに感心を持とうとしない態度、
生命にたいする忠誠の誓いの拒否なのである。
自分を殺す者はすべての人間を殺す、
というのは、
当人の側からすれば、
眼前の全世界の抹殺になるからだ。
この宇宙のどんな小さな生き物一つ取っても、
自殺者の死によって嘲笑の痛手を受けぬものはない。
(福田恆存訳。表記を一部変更。原文旧かな)
そう、
だからこの世は宇宙のジョークなのです。
真剣に生きねばならないからこそ、
宇宙のジョークなのですよ。
とはいえ、最後に一つ。
学生時代、先生は私に「優」をつけてくれなかったのです。
「良」しかくれませんでした。
ホントですからね!
7 comments
GUY FAWKES says:
1月 25, 2018
>どうも先生、自殺の場所となった田園調布のバス停付近について「あそこは死ぬのにいい」と話していたらしいんですね。
で、場所の見当がついた次第。
>入水したあと流されて行方不明となってしまわないよう近くの木にロープを巻きつけ、それを自分の身体にくくりつけてあったとのこと。周到に準備されていたのです。
あまりにも壮絶です、そして改めて思想家・西部邁への畏怖・畏敬の念を抱きました。
ですが、最古の門下生である佐藤先生を前に大変失礼ながら先日の訃報当日の記事が目に飛び込んできても
この度の西部先生による『自裁死』について驚愕や絶句は一切しませんでした。
何故か冷静だったのです(そのことには若干の生温い自己嫌悪も覚えましたが…)
まるで「其処」にごく自然と西部先生がただ歩いて辿り着き、「じゃあな、洒落臭ぇ娑婆よ!」と瞬きした後には消えたかの如く…
偉大な賢人の喪失の中で自分語りが過ぎた様で申し訳ありません。
それにしても、一昨年の夏のシンポジウム後に新宿二丁目のある文壇バー、ブラでの西部先生のご尊顔が本当に忘れられません。
今年は「表現者クライテリオン」だけでなく、佐藤先生のご著書も複数上梓されると伺っております。
今後のご活躍を心より祈念申し上げまして、改めて西部先生の荘厳な幕引きに哀悼の意を表します。
shun says:
1月 25, 2018
佐藤先生、詳細教えていただきありがとうございました。
先生の顔が安らかだったと聞き安心しました。
実は昨日夜に多摩川に行ってまいりました。
「もし自分がここで死ぬなら・・」などと考えながら散策していたのですが、
「やはり未練があったら自裁はできないな・・」と月並みな感想を抱きました。
無我の境地と言いましょうか。
先生もそんな気分で、入水したのかなと思いながら
手を合わせて、帰ってまいりました。
また残された我々は、心を一新して前に進んでいきたいですね。
豆腐メンタル says:
1月 25, 2018
合掌
佐藤先生。ご葬儀の参列ありがとうございました。
不釣り合いながら想いを発散させていただきます。。
死は、普遍でもあり個別でもあります。
ですので死は本来的にアンビバレントなものと思います。
G・K・チェスタトンの言葉は、個別側からの安易な意味付け対する、普遍側からの批判と理解しました。死は罪、と強調するところに現れていると思います。
西部先生は、その両方を誠実にまた濃密に抱えながら、生きておられたのではと思います。
先生の自殺は、考えることに偏った結果でもなく、行動することに偏った結果でもなく、決断すらも超えていたのではないでしょうか。
それはまさに「表現」と呼ぶにふさわしいと思います。
言論人として、師として、親として、男として、日本人として、最後まで生きた西部先生だったと思います。
山口謙太郎 says:
1月 25, 2018
佐藤先生 はじめまして。
23日 親切な警察官の御力をかりて
河川敷にお花を手向けにまいりました。
佐藤先生のツイート
文化放送でのコメント
そして お別れ会の様子を教えていただき
心の痛みが少し和らぎました。
本当に有難うございました。
せい says:
1月 26, 2018
葬儀とは、生きている人の為にこそ行われるものだと、本で読んだ事があります。葬儀のご様子を知って、私も救われた思いが致します。
三橋貴明さんの新聞で、【上島嘉郎】追悼 西部邁先生 を読みました。2000年頃に書いたそうですが、
「逆にいうと、グローバリズムは徳の観念からの、あるいは抽象的な徳への、逃避という意味で、不徳の思想なのである。そうと察知すればこそ、大衆人たちはこぞって国境を超えようとしている。いや、たまの旅行ややむをえぬ仕事を除いては、国境を超えて生きることなど叶わぬようなちっぽけな存在であるにもかかわらず、自分が国境を一またぎで超えることのできる巨人であるかのように偽装し、そして自分の帰属する国家(国民とその政府)に忘恩の徒よろしく反逆の言葉をあびせかけている。
こうした大衆の挙動は、新世紀初頭の十年間くらい、ますます猛威をふるうであろう。ナショナリティとモラリティを失っているのであるから、彼らはサイボーグ(人造人間)にしてサイコパス(人格破綻者)である。この不気味な軍団が徳ある生にたいする大がかりな出征を企てているのであるから、それへの一撃のためには、当方も自死の覚悟でいかざるをえないのではないか。」
私が何となく感じていた、あの時代への感覚を、見事に言語化して頂きました。当時は何もわからず、大衆社会に対して、孤独感で胸がいっぱいでした。
scherzoso 53 says:
1月 27, 2018
私にとって西部邁氏は、かつても今も「精神」の中心にいて絶えず「問いかける存在」で在り続けている。そのような存在こそが、「先生」という言葉では表現しつくせない、「師」と名づけるべき存在ということなのだろう。佐藤氏のように生前直に西部氏の謦咳に接する幸福は、一庶民の一読者に過ぎない身としては当然のこととはいえついに得られなかったのだが、西部氏の肉声をもはや聞くことができないという、氏との絶対の隔絶を前にしたとき、その見果てぬ夢が今も心の底に明滅し続けているのを感じる。
私がいつも記憶の彼方に思い出すのは、若き日の西部氏の姿である。それは1986年7月から9月にかけて、NHKの教育テレビ(今のEテレ)で放送された「NHK市民大学」という公開放送講座「大衆社会のゆくえ」の講師として私が初めて目にした西部氏の姿であった。あたかも無から有が紡ぎ出されるかのように、淡々として淀みなく現れる言葉の端正さと密度に、私はかつて感じたことのない新鮮な驚きと喜びを覚えたことを思い出す。それは書き言葉がそのまま話し言葉に姿を変えたかのような言葉のドラマとでも言おうか。その市民大学講座の映像は今もどこかに残っているだろうか。もしそれがあったならもう一度あの時の先生の姿を見たいと切に願う。
もう一つ、忘れられない先生の映像がある。それは、やはりNHKの番組で、「わたしと夏目漱石」と題したものだ。幸いこれはビデオに録ってあり、私にとって貴重な宝物ともなっている。それは漱石の「現代日本の開花」を題材に、日本の近代化と漱石の精神の葛藤、言葉の底知れなさと絶望との対峙などを先生が、自らの思索と経験を織り交ぜながら穏やかに謙虚に自省的に語った好番組だった。
その後、先生は東大を辞し、私は朝生によって先生の姿に再会することになるのだが、私にとって西部先生は朝生の西部邁ではなく、その原像は今なお、初めて私の前に姿を現したあのNHK市民大学講座の、気鋭の知識人であり東大の先生であった頃の西部先生なのである。その頃の西部先生の東大教養部の講義を佐藤氏は直に受けられたとは、なんと幸福なことだっただろうと、私は羨望の念を禁じえないのである。
西部先生は、類まれな言葉(論理)の人だった。これほどに言語能力(知性)に秀でた人はおそらく、かつてもこれからももはや私たちは見ることはできないだろう。先生の論理の強靭さと緻密さは、浩瀚な学問的知識と真の教養によって支えられる総合知と表裏一体のものだった。話し言葉においてさえ物事の本質を緻密、多層的・論理的に語れる知識人は、後にも先には、西部氏を措いてほかにいないだろうと思う。
今日、日本の言論風土において保守思想がこれほど多く(いまやそれ自体「大衆化」するまでに)語られるようになったのは、西部氏が政治・社会思想としての保守思想の意義をさまざまな著書や議論の場で論述し、理論的に提示したことによるだろう。まさに日本に近代主義的大衆社会が到来しつつあった昭和55年前後、大衆批判をいちはやく展開したほとんど唯一の知識人こそ西部邁氏その人であった。
近代保守思想に連なるヨーロッパ知識人の系譜、近代主義と対峙するその山脈を貫く近代保守思想の特質を思想的に闡明し、保守思想が日本の思想風土で市民権を得たのは、まさに西部邁氏によることを我々は忘れることはできない。
昭和55年前後、西部氏が《大衆への反逆》を掲げて論壇に登場するまで、マルクス主義の思想的支配下にあって雑誌「世界」を売名の場とした進歩的文化人(「朝日・岩波派知識人」とそのエピゴーネンたち)の戦後左翼進歩主義が論壇の牢固たる体制(エスタブリッシュメント)を形成していた戦後民主主義的思想風土においては、「保守」という言葉自体が不当に等閑視され、思想的にもそれを深く考究する営みが絶えてなかった時代――あまつさえ「保守反動」などといった浅薄な政治用語が戦後左翼の常套句として流通闊歩していた時代――を思えば、隔世の感を抱くのは私のみではあるまい。そのような時代を知悉する者は、戦後日本の思想史において保守思想のルネサンスをもたらした知識人こそ、西部邁氏その人であったことを忘れてはならないだろう。
藤井貞信 says:
2月 13, 2018
昔ですが某地方国立大学の物理学の素粒子論講座の卒論に自分が「ゲーデルの不完全性定理は物理学に影響を与えるか」を書いたため影響力ある西部先生にゲーデルの不完全性定理を広めていただきたく平成になった直後東村山のお宅に手紙とゲーデルの本を送り先生からすぐに返事の手紙がきました。専門と一般の中間の本を先生あっという間に読まれすぐ返事が「お手紙大変面白く拝見いたしました。ゲーデルのこと私なりに理解していたのですが」と翌年1990年5月に広島で市民大学講演会で自分が質疑に立ちそのとき数百人聴衆そっちのけで社会問題講演なのにゲーデル談義。最後に先生が壇上から『この回答でいい?』と言って下さり。よくTVなどで親しい人になさる「招き猫」のようなしぐさもしてもらい。先生は公には科学的知識が豊富でも表に出されなかったですが。同じ1990年7月朝まで生TVが初めて東京のスタジオを飛び出し広島の地方局からのときも広島に来てくださり「広島の平和主義者と大激論 野坂昭如氏・西部先生 vs平和主義者の様相を呈して…。お手紙には「私は不信心者ですが 頑張って下さい」とありました