昨日、3月11日で
東日本大震災から7年となりました。
2016年に熊本地震が発生したり
朝鮮半島情勢が緊迫したりと、
最近ではあの震災も
あまり話題にのぼらなくなりました。
とくに今年は
例の森友学園をめぐる
国有地売却決裁文書の書き換え疑惑をめぐり、
当時、財務省理財局長だった佐川宣寿氏が
3月9日、国税庁長官を突如として辞任!
つづいて10日には
書き換えの有無について
ゴニョゴニョお茶をにごすような対応ばかりしてきた財務省が
書き換えがあったと認める方針を固めた旨、
メディア各社が報道!!
・・・この二つの出来事のせいで
少なくとも東京界隈では
東日本大震災7周年が、いささかかすんでしまった感があります。
とはいえ、かの震災に関連しては
今もなお7万3000人の方が避難生活を送っています。
朝日新聞の記事いわく。
インフラを中心にまちの姿が再興する一方、
人口の流出に歯止めがかからない。
岩手、宮城、福島の3県は震災前と比べて約25万人減少。
観光目的の宿泊者数は3県とも震災前の水準に及んでいない。
原発事故に遭った福島では、4町村で避難指示が一斉に解除され、
間もなく1年になるが、帰還者は少ない。
農業産出額も回復していない。
遺憾ながら、仕方ないことかも知れません。
わが国は「国の借金」がどうの、
プライマリーバランスがこうのといって
復興のための財政拡大を渋ってきました。
2011年度こそ15兆円の予算が計上されたものの
翌年からは補正を含めて4兆〜5兆円前後に後退。
2018年度の当初予算案では2兆3593億円となっています。
東北の復興はまだまだ道半ばなのです。
ならば、被災地は現在どうなっているか?
東北の有力地方紙「河北新報」は
この2月、
マーケティング・リサーチ会社「マクロミル」と一緒に
約1500人を対象としたネット調査を行いました。
そこから浮かび上がるのは、
被災者の中でも格差拡大が進んでいるのではないか、ということ。
調査の第3問
東日本大震災の前と比べて、現在の暮らし向きはいかがでしょう。
にたいする被災者の答えはこうなっています。
・暮らし向き全般
楽になった/改善している 14.6%
厳しくなった/悪くなっている 28.8%
・日常生活
楽になった/改善している 15.5%
厳しくなった/悪くなっている 23.9%
・仕事の確保
楽になった/改善している 17.2%
厳しくなった/悪くなっている 20.7%
・住宅の再建(の見通し)
楽になった/改善している 19.7%
厳しくなった/悪くなっている 25.6%
・自分の住む街の復興
楽になった/改善している 22.0%
厳しくなった/悪くなっている 29.1%
ちなみに「楽になった/改善している」理由として挙がったのは
「仕事量が大きく増えた」
「求人倍率が高水準」
「ローンを組んで家を建てることができた」
「新築が増えている」など。
逆に「厳しくなった/悪くなっている」理由として挙がったのは
「多くの得意先が廃業した」
「復興関連の仕事が減った」
「高齢で住宅再建を諦めた」
「土地や建築費が高騰した」など、とのことです。
注目されるのは
楽になった理由と、厳しくなった理由との間に
表裏一体の関係がうかがわれること。
廃業する人や会社が増えれば、残った人や会社の仕事量は増える。
家の新築が増えれば、土地や建築費は高騰する。
ついでに人口が流出してゆけば、人手不足で求人倍率は上がる。
すなわちこの調査結果、
被災者の間でも、復興の「勝ち組」と「負け組」ができつつある
ことを意味しているのではないでしょうか?
これもまた、ある程度は仕方ないことかも知れません。
わが国は長らくデフレ不況ですから、
誰かが貧しくならないと誰かが豊かにならないという状況が成立しやすい。
「みんなで豊かに」とは、なかなか行かないでしょう。
しかし「勝ち組」と「負け組」の二極分化が進んでしまったとき、
コミュニティ、あるいは地域全体の復興は達成されるでしょうか?
世界全体が幸福にならないかぎり、個人の幸福はありえない
とは、
岩手の生んだ天才・宮沢賢治の有名な言葉。
いささか極論なのは事実です。
だとしても新自由主義の風潮のもと、
貧しくなるのはなるヤツが悪い!
といった発想にしたがうだけでは
社会全体がすさんでゆくのも疑いない事実。
19世紀イギリスの大政治家、ベンジャミン・ディズレーリが危惧したように
格差拡大を放置しておけば
いずれ「国民分裂」だって起きてしまうかも知れません。
震災から7年、
東北の被災地の状況は
国家的・国民的な連帯意識を回復することの重要性を
あらためて提起しているように思います。
(↓)連帯意識の回復には何が必要か? この4冊がまずはヒントになるでしょう。
ではでは♬(^_^)♬
6 comments
メイ says:
3月 12, 2018
安倍さんが退陣しないなら、被災地も浮かび上がれない。
森友問題で官僚に自殺者が出てしまったが、どんなに苦しかっただろうと思うと可哀想でならない。悔しさもあって涙が出てくる。
「愛国」を言いながら、人をダメにする、こんなに苦しめ、手を汚させる人間。こんな人がなぜ国家の総理総裁でいられるのか。
安倍は国家の機構を崩す。革命的。反逆的。
麻生財務相が、会見で「退陣しない」と言ったので財務省の人は口を開きにくいかもしれないが、野党には官僚を守ってほしい・・いや、国民が守らなくちゃいけないのかな。国民の為に仕事をしてくれているのだから。
安倍政治でボロボロになった日本を立て直すには、官僚の力が必要だから。
力と誇りを取りもどしてほしいんです。
tinman says:
3月 17, 2018
メイさんの名誉のために。
あなたの慈悲の一撃を受けて、私は豆腐メンタルさんにコメントしようと思いました。
(裁量労働制は政府のジョーク? または、どうしてこうズルズルと事態が泥沼化するのか)
(このコメントも、豆腐メンタルさんのコメント等を見てやっぱり言わなくちゃと思った。主体性に乏しいと笑わば笑え)
あなたは優しい人だ。
去年も助けられたし、今年の逆境でさえ理解を示してくれた。
(保守するための変革、または「表現者クライテリオン」第一号発売!)
私はあなたに恩義を感じている。
しかしここでは返しきれないので、その分はリアルで返そうと思います。
オフで会うとかそういう意味ではなくて、あなたのようになりたい、ということです。
お世話になりました。
あなたに返信の義務はないです。私も返信できないと思います。
tinman says:
3月 17, 2018
少しだけ。
あなたの慈悲の一撃を受けて、私は豆腐メンタルさんにコメントしようと思いました。
(裁量労働制は政府のジョーク? または、どうしてこうズルズルと事態が泥沼化するのか)
あなたは優しい人だ。
去年も助けられたし、今年の逆境でさえ理解を示してくれた。
(保守するための変革、または「表現者クライテリオン」第一号発売!)
私はあなたに恩義を感じている。
しかしここでは返しきれないので、その分はリアルで返そうと思います。
あなたのようになりたい、ということです。
失礼しました。
豆腐メンタル says:
3月 13, 2018
昨夜NHKのプロフェッショナルという番組で感心しまして。。
多くがご存知とは思いますが、その番組のシメは「あなたにとってプロフェッショナルとは」という問いに答えてもらいます。今回は、避難生活を支え、死やトラウマに寄り添うある医師が答えます。
うろ覚えですが「プロフェッショナルの語源である医術と信仰に向き合う」とか仰っておられました。
まぁなんて立派!……で調べてみると。
プロフェッショナルの語源は「プロフェス」なんだそうです。
「プロフェス=信仰的立場を明確にすること」とあります。
仕事では、まず聖職者、次に教授(professor)、さらに医者、弁護士などが続くとされている。そこには高度な技術や知識や経験とともに、「神に誓って」「人(体や魂)を救う」のような態度がある。つまり倫理性や自律性が核心にある。
ところで、そんなプロフェッショナルの意味に刺激された私の頭に浮かぶのは、「空気を読む」という日本人の態度。場や立場や関係によって変わるという他律性。
もちろん、だから日本人はダメなんだと見下したいのではありません。
しかし、ちゅーことは何か。空気を読むということは「人を見捨てる」という態度の表明でもあると?
そりゃ復興も停滞するし格差も開くわ。
あと、これを放送するNHKさんなんだから、空気を読んで立派なプロフェッショナルになってもらいたいものだと。財務省とかも。
豆腐メンタル says:
3月 15, 2018
日本人の政治も生き死にも本当にナイーブですね。私もその一部ですが。
「世界全体が幸福にならないかぎり、個人の幸福はありえない」
宮沢賢治の言葉はそのことを見事に表していると思います。
極論ポイのも日本人には必要だという判断なのではないでしょうか。苦笑
ところで、私(自)という認知の根元には自然観があると考えています。
生まれてすぐは、自分と外界とを分けるのは物理的な身体のみで、認知としての自と他の区別は無い。しかし経験を重ねて「私(自)が置かれた環境(他)と私は別であるが同時に不可分である」という認知が育まれる。
つまり、私という感覚は自然に発達するのではなく、環境の認知を前提とする。この根元的な認知は「自然観」と呼べると考えます。さらに。。
西洋人の自然観は究極的には「対等」で、日本人のは西洋のそれとは違い「調和」なのではないかと。
「調和的自然観」となる要素は様々挙げられるとは思いますが…四季の循環、生命力溢れる自然、海洋に囲まれた島嶼、災害の程度、農耕民族が大きく影響していると思います。
また自然観は、生き方や価値観に絶大に影響すると想像します。
そう考える私に言わせれば、昨今の日本経済の舵取りは、手段が目的化したナイーブなものに思えます。言うまでもなく、手段は経済政策で、目的は経世済民という統治です。
今の日本経済の舵取りを「調和的自然観 」に当てはめれば、「経済政策を続けてさえいれば統治している。(結果責任って?w)」となりはしないか。チグハグであれ自作自演であれ改ざんであれ、権力として統率できればいいと。
死生観では、周りに迷惑をかけない死、または空気を読むような死(共に保守主義者の死が成り立ちにくい自殺)は、この世の全てを嘲笑してしまうほどのインパクトを無視したナイーブなものとなる。
これも「調和的自然観 」に当てはめれば、「死にさえすれば大いなる生命循環の一部になる。(連続性って?w)」となりはしないか。
先の宮沢賢治の言葉は、「調和的自然観の日本人」という切り口でも解釈できるのではないかと思うのですね。
「世界全体が幸福にならないかぎり、個人の幸福はありえない」
という言葉は、日本人が得意な、究極的には他律である「調和的自然観」 への戒めを含んでいるのではないかと思えてきます。例えば「世界全体が幸福なら個人も幸福」という言葉に変えてみましょう。内容はほぼ一緒なのに思考停止したグロテスクな態度とも捉えられます。 そんな訳で私にとっては宮沢賢治のこの言葉は自律的に響きます。
西部先生の自殺は未だ咀嚼できません。
果たして先生の死が自律なのか他律なのか、またはその両方なのかが悩ましいところであります。
様々な方が西部先生の死を取り上げておられますが、今のところ佐藤先生の解釈と、以下コラムが最もしっくりきています。
相変わらず長々とすいませんでした。
『西部邁の「自裁死」を美談にしてよいのか』
http://president.jp/articles/-/24399
玉田泰 says:
3月 20, 2018
この記事を読んで、今の世の中には生きる上での知恵が、どこか欠けているのではないかと感じました。
ある人は目先の損得勘定のみで浅薄に生き、残された人は為すすべなく生活の質を落とす。
ある時期までの日本人は、のちの世に渡すものを、確かに育みながら生きていた気がしてなりません。