かの中曽根康弘元総理は
総理在任中、新年のインタビューにおいて
終わりよければすべてよし
ではなく
始めよければすべてよし
と、コメントしたことがあります。
新年インタビューということで
つい、そうおっしゃったのでしょうが
始めがよくても終わりがダメということは
世の中、しばしばありますので
残念ながら、始めよければすべてよしとは言えません。
ただし、こうは言えるでしょう。
始めがダメだったら、終わりもたいていダメである。
議論などでは、とくにそうです。
的外れな主張をする人は
そもそも間違った前提から出発していることが多いのです。
というわけで、こちらをどうぞ。
朝日新聞の記事です。
いわく。
リアルな戦闘シーンが話題になった映画「シン・ゴジラ」など、
自衛隊が登場する映画の制作に、防衛省が協力を続けている。
自衛隊の活動を国民に理解してもらうのが目的だ。
シナリオに口を出すことはないというが、
映画の中で描かれる自衛隊は、「模範的な姿」に近づいてきたとの指摘もある。
要するに最近は
自衛隊が映画でカッコ良く描かれるようになってきたが
それは防衛省が協力しているからではないか、という話です。
朝日新聞デジタルヘッドライン
(その日の主要記事を紹介するメールです)にも
ずばりこう書いてある。
今日のトピックス
「シン・ゴジラ」など、多くの映画で描かれてきた自衛隊。
昔は負ける役が多かったそうですが、近年は「強く優しい存在」として出てきます。
その背景にあるものは。
で、こんなコメントが紹介される。
防衛省が協力した映画では、
自衛隊は善玉として描かれるのが前提。
強くて優しく、法律を守るという模範的なイメージに少しずつ近づいてきた。
シン・ゴジラはその路線の集大成(。)
(須藤遙子・筑紫女学園大学准教授)
映画の中の自衛隊は、
国民意識の変化、
それへの映画産業側の対応、
自衛隊の存在意義を示したい防衛省の思惑が相互に作用した姿と言える(。)
(片山杜秀・慶応大学教授)
もうちょっとで
「これは全て防衛省のせいだ!!」
というフレーズが出てきそうな感がありますが・・・
冷静に考えてみましょう。
どこの世界に、
自国の防衛を担う組織について
悪玉だったり、
弱くて冷たかったり、
法律を破ってばかりいるように描く映画産業があるんですかね?!
ついでに、どこの世界に
自国の防衛を担う組織が
負けてばかりいる姿を見て喜ぶ観客がいるんですかね?!?
「その背景にあるものは」などと
何やら問題提起をしたがっているようですが
映画に登場する自衛隊が
自衛隊としてあるべき模範的な姿をしているのは
まったく当たり前の話なのです。
そうでなかったら、それこそ「その背景にあるもの」をさぐったほうがよろしい。
要するにこの記事は
映画の中であろうと、自衛隊の活躍が喜ばれるのはおかしい
という
みごとに間違った前提から出発しているせいで
当たり前のことの背景にあるものをわざわざさぐる
という楽しい的外れをやらかしているのですよ。
アメリカのSF映画「スペースインベーダー」(1986年)なんて
地球侵略をもくろむ火星生物に
合衆国海兵隊が立ち向かうのですが
登場する海兵隊員の多くは本物でした。
ついでにエンド・クレジットには
200年以上にわたって祖国を守ってきた
合衆国海兵隊に感謝する
という字幕まで出るのです。
映画への協力ではなく、
祖国防衛の歴史に感謝したのがミソですね。
ちなみに劇中の海兵隊司令官(これはたぶん役者)は
出動に先立って
海兵隊は火星生物など恐れはせん!!
と、しっかり宣言していました。
そうこなくちゃねえ。
ではでは♬(^_^)♬
9 comments
Guy Fawkes says:
10月 7, 2016
>要するに最近は自衛隊が映画でカッコ良く描かれるようになってきたが
それは防衛省が協力しているからではないか、という話です。
>映画の中であろうと、自衛隊の活躍が喜ばれるのはおかしい
>防衛省が協力した映画では、自衛隊は善玉として描かれるのが前提。
>自衛隊の存在意義を示したい防衛省の思惑
高山正之さんではありませんが、なんと言いますか相も変わらずですね。
そもそも「シン・ゴジ」に限れば自衛隊はどちらかと言って無力な方で、実際にゴジラを凍結したのは
巨災対という出世にまるで無縁な曲者の寄せ集め集団なのに…
そういった「ダサいけど頑張った」人々ではなく自衛隊にしか注目できない点も興味深いですね。
どうやら件の新聞の論説や学者先生方のご意見では
「自衛隊ないしは軍隊とは国民の平穏を妨げる圧政の手先であり、
法治国家と立憲主義を脅かす冷酷非情な存在だ!」という前提がご所望の様子…
(しかし、それだけ冷酷な圧政の手段であったら必然的に強権を担保するのだから
彼らがどれだけ望んでも「弱々しい」存在の前提はどうあっても無理な気が…)
兎も角、彼らは「先の戦争は日本が間違っていた、だから弱くて敗けたのだ!」
という結論をどうあっても崩されたくないのですね。
即ち、自衛隊ないしは軍隊は未来永劫誤った存在でなくてはならないという
自分達の「道義的優位性」を確保することに躍起になっている。
勿論、保守層の側にも「日本は正しい戦争をしたのだ、だから敗けた様に見えて実は勝っているのだ!」
という勇ましい(皮肉)抗弁もあるのですが。
いずれにしても戦後日本における保革・右左の両者に横たわる「自分が悪者扱いされたくない」
更に言えば「自分の中の悪を承認・受容できない」症候群は原発事故の如く深刻だ。
尾頭ヒロミ「ゴジラより怖いのは、私たち人間ね。」
PS:シン・ゴジラのクライマックスでリメイクされ流された故・伊福部昭さんの
「宇宙大戦争」マーチ(Battle in Outer Space)はいつどこで聞いても元気が出ます。
あのやけっぱちとしか思えない打楽器の如しピアノには思わず笑いすらこぼれますが。
SATOKENJI says:
10月 7, 2016
地球防衛軍マーチと双璧ではないでしょうか。
Guy Fawkes says:
10月 7, 2016
全く仰る通りです、そして『地球防衛軍』のちょうど前年と翌年に公開されていた
『空の大怪獣ラドン』の「ラドン、追撃せよ」と『大怪獣バラン』のマーチも。
特に後者は上述の『宇宙大戦争』でセルフリメイクされ、
没後十年を経て今年のシン・ゴジで三度お披露目しましたからね。
特撮音楽に関してはゴジラからたった5年で今日までの基礎を築いてしまった伊福部昭先生…
「真にグローバルたらんとすれば真にローカルであることだ」
-『音楽現代』2006年4月号 弟子・有馬礼子女史による「伊福部先生のこと」より
SATOKENJI says:
10月 8, 2016
なおピーター・バラカンさんから教わりましたが、ピアノは打楽器です。
ハンマーが弦を叩いて音が出る構造になっていますので。
ビリー・ジョエルも、エルトン・ジョンについて
「彼の音楽の偉大さは、ピアノは打楽器なんだと再認識させてくれたことだ」
と語っていました。
http://shigematsu.jimdo.com/テクニック/ピアノは打楽器か/
ちなみに御大・伊福部昭さんは「宇宙大戦争マーチ」について
こんなにテンポの速い曲を5分も演奏していただくのは人道上問題がありますので(笑)
とコメントしておられます。
息吹 says:
10月 7, 2016
シンゴジラの自衛隊は災害活動的なことしか活躍してませんでした。
現在の自衛隊の役割を反映していると思います。
それでも反対する方は反対するのでしょうね。
ゴジラに対する攻撃では傷すらつけれませんでした。
戦後から今まで実戦(戦争)したことがないため、どの位の実力なのか、
誰もわからないためゴジラが強いと言うよりもあの様な命中しても
傷がつかない表現になったんだと思います。
自衛隊の実力(戦後脱却?)がわかる日は来るのでしょうか?
マゼラン星人二代目 says:
10月 8, 2016
>どこの世界に、
>自国の防衛を担う組織について
>悪玉だったり、
>弱くて冷たかったり、
>法律を破ってばかりいるように描く映画産業があるんですかね?!
同じ自衛隊でも、『戦国自衛隊』に登場したのは余りお行儀がよくなかった記憶があります。
それに映画パトレイバー第一作のオープニングのドンパチだって、不祥事の隠蔽が目的だったではありませんか。
フルート says:
10月 8, 2016
遅くなってしまったのですが桜の討論すごく勉強になりました!
朝日新聞デジタルの記事の話しなのですが、この記事
『映画の自衛隊、変化するキャラ 背景に防衛省の協力』の
“専守防衛を批判する場面も”
の段のあとには、
“「英雄的な描写、許容する風潮」”
須藤さんは「防衛省が協力した映画では、自衛隊は善玉として描かれるのが前提。強くて優しく、法律を守るという模範的なイメージに少しずつ近づいてきた。シン・ゴジラはその路線の集大成」と話す。度重なる北朝鮮の核実験やミサイル発射、中国の海洋進出などを背景に、英雄的に描かれる自衛隊を許容する風潮は強まるとみる。「メディアリテラシー(メディアの特性を理解して情報を見極める力)を持って楽しむ必要がある」
ともあるので、<北朝鮮の核実験やミサイル発射、中国の海洋進出が、英雄的に描かれる自衛隊を許容する国民の意識変化の「背景」に、すでに成り得ている可能性の存在を、筆者が認識できている可能性..>も、最初私は考えたのですが、でも続く
映画に詳しい慶応大学の片山杜秀教授(政治思想史)は「テロや大災害に立ち向かう中で、自衛隊は着実に市民社会に受け入れられてきた。映画の中の自衛隊は、国民意識の変化、それへの映画産業側の対応、自衛隊の存在意義を示したい防衛省の思惑が相互に作用した姿と言える」と分析する。
の中にある、<国民意識の変化と、それへの映画産業側の対応、自衛隊の存在意義を示したい防衛省の思惑が相互に作用している可能性>を(市民社会に?着実に受け入れられてきた国民意識の変化の存在を)、筆者は探らないまま、そのまま記事は
“防衛省が協力した近年の主な映画”
という一覧表(?)で(“専守防衛を批判する場面も”の段→“「英雄的な描写、許容する風潮」”の段→“防衛省が協力した近年の主な映画”の段・・というか一覧表で)終わってしまっていました。検索してみたのですがこの朝日新聞デジタルの筆者(其山記者)は、
実は一度10月6日の05時00分に
『自衛隊像、銀幕で変化 防衛省協力「信頼向上に」』
というタイトルでこの記事を掲載したあと、
10月6日05時21分にもう一度タイトルを
『映画の自衛隊、変化するキャラ 背景に防衛省の協力』
に変えて、掲載し直してるみたいなんです。このあとから変えた方のタイトルは、私は防衛省の存在に直接「背景」という言葉をくっ付けることにしたこともそうですけど、“キャラクター”という英語の原語的には“望ましさ”を含む言葉にまで言及してある点でも、余計にずっと踏み込んだ表現なのかもしれない..とかそのとき思いました。読み方によってはですけどもしかしたら、『映画の自衛隊、~』と断ってはあっても、片山教授の話しによって「銀幕」ではない本物の自衛隊への国民意識の変化を筆者は一度意識させられた可能性もあるので、やっぱりこの『キャラ』は、「像」よりももっと踏み込んだ、その対象自身の内面のこととかまでも筆者が無意識に想像した形跡な可能性もあるんじゃないかなとか思ったんです。もしかすると筆者は、本文にあった
度重なる北朝鮮の核実験やミサイル発射、中国の海洋進出などを背景に、英雄的に描かれる自衛隊を許容する風潮は強まると(片山教授は→)みる。
のところを自分で読み返してみて、「背景に」という言葉をもうタイトルの段階から防衛省に直接付けちゃうアイデアを思い付きつつ、自分の思っていたよりも国民の変化を肯定的に話してもいた片山教授の話しを思い返す中で、自分の中の<防衛省のせいとおかげ>の両方が大きくなって、それに合わせる様にして自衛隊も像からキャラクターになったのかも?とかその時は思いました..。
でも正確に変更される前の本文と変更後の本文を見比べてみたら、変えてあったのはタイトルだけじゃなかったです・・変える前の記事の段階では、
無線のやりとりなど細部の描写がリアルなあまり、ドキュメンタリーを見ているような錯覚に陥ったという。
(↑映画を観たある自衛隊幹部が)の文は無かったですし、また
この前後から、「自衛隊協力」は映画の宣伝材料になり始めた。
もなかったです。そして変えた後の記事の
度重なる北朝鮮の核実験やミサイル発射、中国の海洋進出などを背景に、英雄的に~
も、元の記事の段階では、「度重なる」は入っていませんでした。。また変えた後の
“専守防衛を批判する場面も”という段の名前(?)も、最初の記事の段階では
“冷戦後に本格化”となっていて、元々の記事の批判のトーンは、変更後の記事に比べたら一方的に弱かったことが判りました・・。
私はメールの方は読めていません、、ですので余計に推測なんですけど…それでもたぶんこの筆者(其山記者)にとっては、やっぱりあくまでも「背景」としてあるべきものは、<防衛省の影>であって、<テロや災害時に活躍する自衛隊のすがたや、北朝鮮・中国などへの脅威から変化し始めたのかもしれない国民の意識>では余りあってほしくない…みたいなものの方が、最後まで勝ったのかな..と思いました。
ただ同時に本文で紹介された「メディアリテラシーを持って楽しむ必要がある」とか、納得できるところも多いと思いました(朝日新聞だけ読んでいさえすれば、それでメディアリテラシーが必ず一方的に向上し続けるなんてことはないと私は思いますし、また筆者が伝えたがっていたり・もしかすると導きたいと思っていたかもしれない文の意味とは、違う意味の読み取り方だった感もあるんですけど..)。(すごい長文すみませんでした。。)
玉田泰 says:
10月 11, 2016
日共辺りが反戦映画を作るなら、自衛隊は協力するんですかね?
でも断られても大丈夫、きっと人民解放軍がカッコ悪く演じてくれる!
それはそれで、色んな意味で話題作になるし(笑)
マゼラン星人二代目 says:
10月 24, 2016
>日共辺りが反戦映画
>きっと人民解放軍がカッコ悪く演じてくれる
ノモンハン事件の映像化(「戦争と人間」第三部)は共産圏の映画会社のサポートを受けてようやく実現している。