さて、戦後70年に関する総理談話が出ました。

反応は(当然ながら)さまざま。

 

私の周囲でいっても、

たとえば平松禎史さんは、

ブログで厳しい見解を述べていました。

 

逆に三橋貴明さんは、

やはりブログで肯定的な見解を述べています。

 

・・・じつはこれ、

ともにもっともなんですよね。

というか、平松さんと三橋さんで

本当のところ、それほど評価が違っているわけではないのです。

 

今回の談話、全体にいささか歯切れが悪い。

ついでに19世紀いらいの西洋諸国の植民地主義には触れつつ、

「昭和の戦争」における日本の正義は触れないとか、

戦後の国際秩序を無条件に良いものであるかのごとく位置づけすぎている(※)とか、

グローバル化こそ平和をもたらすという図式が強すぎるとか、

ツッコミどころはいろいろあります。

 

(※)米ソの冷戦についてまったく言及がないのは、その意味で象徴的でした。

 

しかし!

 

「新日本経済新聞」でも論じた

〈反省と謝罪の分離〉が、ちゃんと盛り込まれていたのも事実。

この箇所ですね。

 

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。

あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、

そしてその先の世代の子どもたちに、

謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

しかし、それでもなお、私たち日本人は、

世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。

謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 

何と言っても、

いろいろと制約条件が厳しい中での談話ですから

理想的な内容にはなりようがない。

 

それこそ

〈どこで手打ちをするか〉

という話だと思うのですが、

とりあえず、この姿勢を打ち出したことで

(今回は)これでいいのだ! と

評価すべきではないでしょうか。

 

ちなみに関連してご紹介したいのが、

かの村山元総理のコメント。

今回の談話について

自分の談話が継承されたという認識はない

なる旨を語っているのですよ。

 

記事はこちらを。

 

・・・これってつまり、

安倍談話は見かけ以上に画期的なものということじゃないでしょうか?

 

ちなみに村山さん、

「何のためにおわびの言葉を使ったのか、

矮小(わいしょう)化されて不明確になった。

植民地支配や侵略などの言葉をできるだけ薄めたものだ」

とも述べたとか。

 

だから書いたでしょうに。

総理が「アイ・アム・ソーリ」と言えば

「アイ・アム・ノット・ソーリ!」と言い出す連中が出てくるって。

 

まあこの場合、正確には

アイ・アム・モトソーリ! ですが。

 

ただし最後に一言。

真正面から向き合うべき過去の歴史には

占領期も含めなければダメですよ!

ではでは♬(^_^)♬