『平和主義は貧困への道 または対米従属の爽快な末路』

本日で刊行より100日となりました。

 

おかげさまで売れ行きは好調。

12月前半は、電子版がセール価格だったのでAmazonの順位を大いに上げましたが

昨日は紙版が日米安全保障部門で1位を記録しています。

 

日米安全保障1位(12/22)

 

『新訳 フランス革命の省察』のようなロングセラーの経路を

着実に形成しつつある模様。

ぜひ、自己強化メカニズムによる経路依存性を獲得してほしいですね。

 

来年3月で刊行から8年になりますが、こちらもおかげさまで好調です。

DvA5PsdU0AA7npr

 

 

というわけで、どちらもよろしく!

 

「基地や原発を止められない理由も、こっちを読んだほうがよく分かるわよ!」(※)お姉さまのお言葉です。

COVER+OBI

うなずいたアナタはこちらをクリック!

 アニメから sayaさんの熱唱まで、豪華絢爛たるプロモーション動画はこちら!

 

フランス革命の省察

紙版のご注文はこちら!

電子版のご注文はこちら!

 

さて。

12月9日、および10日の記事

「今や世界は、あらゆることについて疲れている気がする」

でも触れましたが、

2010年代末の世界を理解するキーワードは「疲れ」ではないかという気がしています。

 

より正確には

疲れのダブルバインド(自己矛盾)。

 

既存の路線にはすっかり疲れて

内心うざうざになっているものの、

新しい路線に転換するのもおっくうで気が進まず、

そのため何だかんだ言いつつ

既存の路線を歩むことを指します。

 

中野さんも「そうだと思う」とのことでしたよ。

Exif_JPEG_PICTURE

 

いい例がブレクジット。

テリーザ・メイ内閣がまとめてきたEU離脱協定案は

議会(下院)で可決される見通しがまるで立たず、

採決前日になって

メイ首相が採決を延期するという事態になりました。

 

EUとさらに協議したうえで

1月第三週(14日〜20日)にあらためて採決するとのことですが

そんな短期間で大した修正ができるとは思えず

やはり否決の恐れが強い。

 

ふつうに考えれば内閣退陣ものの展開だと思うのですが・・・

 

メイ首相、保守党内の信任投票では信任されるんですね。

ついでに議会でも

労働党のジェレミー・コービン党首が不信任案を出しましたが

これは内閣全体ではなく、

テリーザ・メイ首相個人にたいするもの。

 

そのため可決されても辞任する必要がないどころか、

そもそも採決するかどうかも

政府の判断で決めて良いという代物です。

関連記事こちら。

および、こちら。

 

コービン党首は目下、

メイ首相を「バカ女」呼ばわりしたとかしないとかで物議をかもしていますが

内閣を本気で退陣に追いやるつもりはなさそう。

 

メイ路線にはうざうざだとしても

この段階で路線転換をやるとか

まして政権を引き受けるなど

もっとおっくうだからです。

何やら、極東亡国の野党のようになってきましたな。

 

♬政治はどこも宇宙のジョーク、あっソレ

Exif_JPEG_PICTURE

sayaさんも、とかく女性をバカにしたがる保守界隈のオジサンたちには怒り心頭のようです。

Exif_JPEG_PICTURE

 

ならば、当の極東亡国はどうか。

ここでは疲れのダブルバインドを超えた

疲れの三すくみが生じているように見えます。

具体的には・・・

 

1)あまりに非現実的で、ついでに貧困への道でもある戦後平和主義への疲れ。

2)平和主義を脱却しないまま現実的な経世済民を追求したせいで、

  アメリカの現地妻と化した自民党、ないし戦後保守への疲れ。

3)平和主義を脱却しないまま自民党政治を否定しようとするせいで、

  えんえん失敗してばかりの野党への疲れ。

 

戦後平和主義疲れは、ナショナリズム志向につながる。

ところがわが国の保守は

じつは平和主義を脱却していないため、

口ではナショナリズムを唱えこそするものの、

実際には後になればなるほど

新自由主義的なグローバリズムにハマってゆく。

 

ところが野党、ないし左翼・リベラルは

保守ほどにもナショナリズムを肯定できずにいるし

まともな政権運営をする能力もない。

というわけで、たまさか政権を担ったりすると

すったもんだの迷走の果てに自民党政治をなぞり出す。

 

「じゃあ、どうするの!!!!」

 

こらえ性のない魂の叫びが聞こえてきそうですが

有効な処方箋などないんですよ、ハッキリ言えば。

 

かのヨーロッパが

グローバリズムとナショナリズムという

疲れのダブルバインドを解決できず

自死を選びつつあるときに、

もともと理念的にいい加減で

タコフヘーベンとインタコレイトに明け暮れる極東亡国が

疲れの三すくみなど解決できるわけがない。

 

かのシュペングラーが言うとおり(要出典)、

われわれにできるのは

目の前で祖国が崩壊するのを眺めながらダンスを踊るくらいかも知れないのです。

それが偉大さであり、血筋の良さというものです。

 

なにせ平成の30年間、

日本人はさらなる自由と豊かさを求めて

自国のあり方の否定(つまり改革)を繰り返したあげく、

元も子もなくしてしまい

すっかり疲れ切ったと言っても過言ではないんですからね。

 

・・・しかるにここで、思い起こされる映画がある。

ブライアン・シンガー監督の『ボヘミアン・ラプソディ』。

 

1970年代から1980年代にかけて人気を博した

イギリスのロックバンド「クイーン」、

なかんずくそのリーダー格だった

フレディ・マーキュリー(1991年死去)の伝記映画です。

 

クイーンはもともと、

日本で人気に火がついたのですが

『ボヘミアン・ラプソディ』も予想以上の大ヒット。

新たなクイーン・ブームが生じるまでにいたりました。

 

とはいえ、

この映画のどこが

そこまでアピールしたのでしょう?

 

私も先週、観てきましたが

面白いことに気づきました。

作品の出来が素晴らしいのはもちろんですが

『ボヘミアン・ラプソディ』は

昭和を超える幸せを求めて改革に走ったあげく

疲れてしまった平成末期の日本人にとって

身につまされる一方、

救いを与えてくれる映画でもあるのです。

 

劇中、フレディ・マーキュリーは

自由になりたくて過去を否定してゆく人物として描かれる。

彼は移民の息子で

もともとはファルーク・バルサラという名なのですが

保守的・因習的な家庭の雰囲気を嫌い、

実家を捨ててクイーンという新たな「家」に入る。

 

この点は台詞でちゃんとフォローされています。

クイーンのメンバーはバルサラ家の人々にたいし、

自分たちのバンドは「家族」だと語っているのです。

 

やがてファルークは

名前を正式に「フレディ・マーキュリー」に変え、

実家には寄りつかなくなる。

 

そしてクイーンは、1970年代を代表する

ブリティッシュ・ロックバンドの一つとして

富と名声を手にします。

 

しかしマーキュリーは、

いつしかクイーンという「家」にも満足できなくなる。

他のメンバーが普通に結婚して家庭を持ち始めるのにたいし、

ゲイである彼はそうしたくない、

あるいはそうできないからです。

 

こうして彼は、

クイーンのメンバーからも距離を置くようになる。

周囲にいるのは、

彼を崇めてくれるイエスマンばかり。

ついにはソロ活動にも色気を見せ始めます。

 

だが、これは自由か?

 

ある意味では、そうかも知れません。

しかし今や、フレディには帰属する先をどこにも持っていない。

「家」を完全に失ってしまったわけです。

 

ついでにイエスマンに取り囲まれている状態は

何でも自由になるようで、じつは自由ではない。

あらゆることにイエスと言う人間は

あらゆることにノーと言う人間と同じくらい

相手のことなんて、じつはどうでもいいんですからね。

 

何でも思い通りになる状態は、じつは自由ではない!

過去を否定しつづければ、最後には何もなくなる!

疲れ切った末にそう気づいたフレディは

クイーンの仲間たちにワビを入れ、バンドを再起動させます。

 

再起動の舞台となるのは、

全世界15億人が衛星中継で観るという1985年のライブ・エイド。

この場面がクライマックスとなるわけですが

フレディにとって

それが「家への帰還」を意味することは

クイーンの一員としてライブ・エイドに出演する直前、

彼が久方ぶりに実家を訪れ、

家族と和解することを通じて明確にされていました。

 

聖書には

金持ちの息子が家を飛び出し

自由気ままな放蕩(ほうとう)生活を送ったものの

ついには無一文になってしまい

反省して実家に戻ってきたら家族に暖かく迎えられたという寓話がありますが、

『ボヘミアン・ラプソディ』はこのバリエーションと言えるでしょう。

 

エンド・クレジットの末尾には

この映画は事実に基づいているが、劇的効果を高めるため脚色した点もある

という断り書きが出たので

上記の内容も100%事実とは限りません。

 

フレディが他のメンバーと和解したのは

本当はもう少し後だった可能性もあります。

しかし、それは二次的な話。

重要なのは映画に

次のようなメッセージがこめられていることです。

 

自由や豊かさを求めて「家」や「過去」を捨てたとしても、

本当に自由にはなれず、最後には疲れ果てる。

だが、元も子もなくしたと絶望することもない。

やり直す気になれば、帰るべき「家」はちゃんとあるし、

君のことを受け入れてくれる。

それが絆というものだろう?

 

疲れの三すくみによって

すべてにおっくうになった日本人にとり、

じつに力づけられる励ましではないでしょうか。

 

平成最後の冬、

『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットしたのには

時代の必然ともいうべきものが感じられるのです。

 

・・・ちなみに海外では

「家」に戻ってくるフレディが移民の息子という点も

アピールしたものと思われますが

わが国でも遠からず、これは切実なポイントになるでしょう。

 

帰るべき家を見出すために、読むべき4冊はこちら!

 

ではでは♬(^_^)♬