「明日なき暴走」(BORN TO RUN)といえば
かのブルース・スプリングスティーンを
一躍有名にした歌(およびアルバム)ですが・・・
本日のテーマは「明日なき凡庸の暴走」です。
ここでいう「凡庸」とは
本当には何も考えないまま
その場の空気になんとなく押し流され
〈自分が決めたことじゃないんだから責任もないはず〉と勝手に決め込んで
メチャクチャをやらかすこと
と定義できるでしょう。
三橋貴明さんは目下、ブログでこの問題を熱心に論じているところ。
5月14日の記事には、こんなくだりまでありました。
わたくし達、普通の日本人は、
(注:暴走した凡庸な人々について)
「まさか、そこまでウソを大ぴらにつかないだろう」
と、考えてしまいます。
とはいえ、現実に平気でウソをつく人たちは存在するのです。
無論、外国(中国、韓国など)にも多いですが、日本国内にも確かに存在します。
ウソが真実としてまかり通ってしまった場合、民主主義は、
少なくとも「健全な民主主義」は成立しません。
まったくの正論です。
しかし、話が面白くなるのはここから。
作家の松井計さんが、昨日こんなツイートをされているのです。
以下、全文どうぞ。
為政者に対し『そこまではやらないだろう』と
蓋然性のない、感覚的なものだけで楽観視してはいけませんよ。
そうではなく『いくらやりたくても、そういう事はできない』という状態にしておかないと。
憲法に〈そうできる〉条文を入れる事を許しながら〈そこまではやらないだろう〉と考えても仕方がない。
三橋さんと松井さんの議論の共通性は明白でしょう。
しかるにお立ち会い。
松井さんのツイートは文脈から判断して、
安保関連法案、ないし集団的自衛権をめぐるものなのです。
当然、反対のお立場でしょう。
たいする三橋さんは
近著「繁栄の絶対法則」が示すとおり
安全保障強化には賛成のはずです。
真逆の立場の二人が
今の世の中、〈そこまではやらないだろう〉と思ってはいけない
という点について
みごとに意見が一致することは、何を意味しているのか?
そうです。
従来の「右か左か」という二分法は、決定的に時代遅れとなっているのです。
これからの時代にふさわしい二分法は、
〈明日なき暴走をつづける凡庸〉 VS 〈明日を見据えて着実に歩む「非凡なる平凡」〉
でなければなりません。
イデオロギー再編のとき、来たれり!
というわけで、こちらをどうぞ。
ではでは♬(^_^)♬
1 comment
マゼラン星人二代目 says:
5月 17, 2015
似通った構造が抽出できる、というより、今回の都構想イシューが、どういうわけか、憲法改正とか安全保障とかいった国政マターとごちゃまぜになった形で争点化してしまっているような印象を受けるのですが。(ごちゃまぜにしたのは、誰あろう、安倍さんや橋下さん自身ではないでしょうか)
今回、都構想賛成派が敗けるとしたら(どうやら敗けたらしい)、そのあたりが敗因じゃないの、などと思ったりします。
「都構想、よくわかんないけど、いいんじゃないの」と「凡庸に」思いこんでいる「大衆」であっても、事柄それ自体と何の関係があるのかわからない、いわば、不純な動機で住民投票が弄ばれたことに対して反感を抱くということも、あり得るのではないか、などと思う次第。
繰りかえしますが、これは、安倍さんと橋下さんが自ら求めた事態です。
橋下維新の求心力強化で改憲勢力拡大の(安倍さんサイドの)思惑が見えかくれする、という趣旨の伝聞体の報道にいくつか接して想像したことに過ぎないので、誤解があるかも知れませんが。