明日、11月4日は
8月20日、9月30日につづいて
文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」に出演します。
今回の話題には、例の
「憲法九条を保持する日本国民」のノーベル平和賞ノミネート
が含まれるとのこと。
このテーマについては、本サイトはもとより
「新日本経済新聞」や
KADOKAWAの「踊る天下国家」などで取り上げてきましたが、
「新日本経済新聞」の記事については、
有料メルマガ「踊る天下国家」と結びつけすぎたこともあり
少なからぬ読者に不快な思いをさせてしまいました。
番組でコメントする前に、
まずこの点について深くお詫び申し上げます。
また平和賞ノミネートをめぐっては、
施光恒さんの見解に疑問を呈することもしました。
これは施さんへの攻撃を意図したものではありませんが
読者の中には、そう受け取られ、ふたたび不快に思われた方もいます。
施さんご自身も、不快に思われているかも知れません。
どちらの見解が妥当かという点は脇に置いて、
この点についても、みなさまに謝罪いたします。
施さんも最近、「おはよう寺ちゃん」に出演されたとのことですし、
番組でもたぶん、われわれの見解の相違が取り上げられるでしょう。
よって私の見解をあらためて表明する前に、
上記の二点については、礼儀の問題として申し上げておきたかった次第です。
とはいえ私は今でも、
1)平和賞受賞が改憲を難しくするかどうか。
2)かりに改憲が難しくなったとして、それが対米依存からの脱却を遅らせるかどうか。
さらには
3)かりに改憲が達成できたとして、それが対米依存からの脱却を促進すると無条件に見なせるかどうか。
のすべてについて、
いちがいにイエスとは言えないと考えています。
つまりは日本の保守(=できるだけ望ましい状態を維持すること)や自立に関して、
1)「九条を保持する日本国民」の平和賞受賞が望ましくないとは断言できず、
同時に
2)憲法改正の実現が望ましいとも断言できない
ということです。
平和賞受賞についても、改憲についても
日本の保守や自立にプラスになるような展開と、
逆にマイナスになるような展開がありうる、
そう形容することもできるでしょう。
なぜそう考えるのかは、番組はもとより、本サイトや「新日本経済新聞」でも論じてゆきます。
ではでは♬(^_^)♬
17 comments
マゼラン星人二代目 says:
11月 3, 2014
どうも有料メルマガは紙媒体と比べても私秘性が高く、公論を形成するのに向いていないようだ。
とまれ、今後、ラジオや無料サイトを通じて主張が公開されてゆくことで議論が活発になればと思います。
フルート says:
11月 3, 2014
楽しみです!絶対聞きます!
『九条そのもの』に賞が与えられるのと(←ほんとは個人・団体ではないので与えられないのですけれども)『日本国民』に賞が与えられるのとでは今後の話の展開が全然違ってきますよね。。だって観念的とはいえ地球規模的な理念としてのその力の贈られる先が、九条に行っちゃうのか日本国民に来るのかじゃ今後の国際社会における力関係の変化もほぼ真逆の話にだって成りかねませんし、日本の憲法に外部の権威を引っ張ってくるべきではない(憲法とはその土地に住む民族の伝統・慣習の体現としてあるべきものなのであるからの意だと思います)というお話も、やっぱり九条に与えられるのではなくて日本国民に与えられるのですからこれもやっぱり話が全然違ってきちゃいます。。これってスルーしてしまって良い位の小さな事とはちょっと思えないんですよね・・一言で言いますとすごく勿体ない。。
もちろん私だって施先生をなにか攻撃しようだなんて考えた事なんて一回もないのに結局のところ佐藤先生の考察にはいつも左派・保守派・護憲派・改憲派すべてに均しく批評の目が注がれているのに対し施先生の特に前々回の論考には最初から最後まで一貫して左派と護憲派のみが批評の対象となっていて保守派と改憲派はいまいち批評の対象から外されてしまっているんですよね。。それで余計に施先生の論考は読者の方からすると読んでいて気持ちが良いのに対し佐藤先生のはそうではないと・・。でもそもそも戦後日本の歴史は、ある意味こちらから勝手に目いっぱい地球規模にまで観念論を押し広げてこれ以上広がり様が無いというところにまで広げている様なそんな明らかに先行させ過ぎた理想主義的現実観でほぼ70年も実際歩んできてしまった以上、その様な理想の先行し過ぎた現実観(保守派側から見れば非現実観)への保守派側の焦燥感が、今度は現実への先入観へと悪変してしまっている可能性だってありそうです。そうなら『左派の反対=現実(常識)のはず』の図式で突っ走っちゃう事は、これは青木先生も経済学への批判として度々指摘されております比喩ですが『ベッドのサイズに合わせて足を切る』事にも成りかねないですし、左派は左派で戦前の日本の歴史や名誉を切り捨てようとした事から起こった過去からのアイデンティティ・クライシスを起こしていても、保守派は保守派で戦後の日本の歴史や名誉まで切り捨てかねない様な現実へのアイデンティティ・クライシスを抱えているのでしょうからこれはどう考えたって『左派・或は護憲派は批評の対象にするが、保守派・或は改憲派は批評の対象とはしない』では傷を開く可能性が高く、左派・或はノーベル平和賞が仮の話として貰えるかもしれない日本国民の現実観(保守派側から見たら非現実観)の中にも、賢が含まれていないか・或はまたそれが本当に愚そのものであって本当に切り捨ててしまって大丈夫なのか(いえ、愚は愚として、あるものはあるものとして、そのまま迎え入れる位の心の構えの無い時には、もう先入観が発生してしまっているのかもしれませんけれども)・・にも、しっかり心を配る必要があるなと思いました。(すごい長文すみません。。)
雪月花 says:
11月 3, 2014
息継ぎできないので、まとめると
1段落目
①9条にノーベル平和賞を与えることと日本国民に与えるのでは意味が真逆になる
②外部の権威を持ってくるべきではないという、そもそも論も真逆になる。
③つまり、受賞する対象が、9条そのものか国民かというのは大事
④したがってスルーするべきではないし、勿体ない。
⑤施先生を批判するつもりはない。
2段落目
①佐藤さんと施さんで批評対象が異なる。佐藤さんは全てに等しく批評をし、施さんは左翼や護憲派を対象としている。
②したがって、佐藤さんは保守派にも耳が痛く感じられる。
3段落目(…でも、そもそも~)
①日本は左翼的世界観(現実観)を歩んできた。
②戦後保守派は、左翼的世界観を全否定する。
③だから、戦後保守派は今回の左翼的運動としてのノーベル平和賞運動も完全な間違い(愚)としてみてしまいがち。
④しかし、どう考えたって、一方的な全否定は論理的ではないだけに、傷を開く可能性がある。
⑤本運動も保守派にもメリット(賢)があるかもしれないと心を配る必要がある
ということかな?
雪月花 says:
11月 3, 2014
施さんと佐藤さんはちょっと立ち位置が異なると思いますね。
施さんは、「メリットがあろうがなかろうが外部の権威を持ち込むな」という主張。
佐藤さんは、「デメリットがあるから外部の権威を持ち込むなと言う主張はおかしい、メリットもあるのだから外部の権威を活用しよう」という主張かな。
個別にみていくと、施さんはランキングナショナリズムを批判しており、国際的な評価に振り回されること自体が害になりうると考えている。
だから、受賞対象が国民だろうが憲法自体だろうが、外部の権威を持ち込むこと自体に反対なのでしょう。
したがって、真逆になろうと、些細な問題ということになる。
それに対して、佐藤さんはこの運動を活用できると考えている。
そして、対象者こそが重要だと思っている。
だからこそ、しつこいぐらい取り上げるわけですが、読者に「そこまで何度も何度も指摘したうえで批判しなくても、良いじゃないか!。そんなに悪いことを言ったのか?」と感じられるわけですな。
結局、「9条にノーベル平和賞を!運動」に対する戦略性の違いであり、どちらが論理的に正しいかというより、どちらが運用が現実的で効果的かを論ずるべき問題なのでしょうね。
この図式をきっちりと分かっていれば、施ファンの方たちもそんなに怒ることもないと思うのだが…。
フルート says:
11月 4, 2014
あっ!お返事どうもすみません。。はじめての事でちょっと失敗してしまうかもしれませんけれど、ご了承下さい・・。
読み辛い・理解し辛い文章になってしまっていてすみませんでした。。今私に書けそうな事をちょっと2つだけ書かせて下さい。。
2段落目の①は、施先生も勿論保守派側をちゃんと批評されます。(例えば安倍総理の経済観などもしっかり批評されております。)・・でも、改憲派が批評の対象から外されてしまっている様に思うんです。。つまり安倍総理が典型例かと思うのですが、保守派と目されていたりご自身でもそう認識されているはずの人がTPPへ前のめりだったりアメリカとの一体化へ何の躊躇も持っていなかったり・・これってつまり改憲派の抱いている世界観にもいろいろな種類のものがあって、『改憲派=日本の保守』とは必ずしも言い切れない様な混乱が起っているわけですから、『護憲派は批評するが改憲派は批評しない』はダメなのは当然の事、安倍総理や石破大臣など個人個人を捉えて批評するだけではなく、もっと広い世界観から日本の保守思想全体を批評の対象としなければいけないのではないかなと思ったのです。。それで施先生の批評のされ方だと、70年近く非現実的な世界観(アメリカに頼りつつ主観的には世界の平和の立役者)の下それを歴史として現実に歩んできた日本にとっては、改憲して目標を達成したつもりが、却ってアメリカ化した・・(アメリカこそ世界最大の理想主義国と考える事もできますし)という事にも成りかねないので、更に巨視的な批評のされ方が必要なのではないかなと思いました。。
3段落目の①は、ちょっと細かい事になってしまうかもしれませんけれども・・左派的世界観の事を保守派や大多数の日本国民がそのまま『これこそ現実観』と認識しているとは思えなくて、多分世界の基準からすると明らかに『非現実的』な世界観でありながらそれをほぼ70年続けてきた事で大多数の日本国民にとってこれが『現実』と観えていて、これに対し保守派は「保守派の世界観こそが現実的なのだ」と捉えていると・・ちょっと紛らわしくなっちゃってすみません。。
フルート says:
11月 4, 2014
すみません!1個訂正を
一番下から2行目の
『現実』と観えていて
のところ・・ ✕『現実』 〇『現実的』
でした、どうも失礼致しました。。
雪月花 says:
11月 4, 2014
解説ありがとうございます。
理解が進みます。一点だけ、ちょっと疑問がありますので以下に記します。
「それで施先生の批評のされ方だと~却ってアメリカ化した・・(アメリカこそ世界最大の理想主義国と考える事もできますし)という事にも成りかねない」
という部分ですが、この主張は疑問です。
その理由は、施さんの根拠に
(1)戦後日本の平和を守ってきたのは、憲法9条ではなく、在日米軍や自衛隊の存在である。それを冷静に認める必要があるから。
というのがありますが、つまり、日本の安全保障に関しての現実をよく検証しましょうということですね。
特に、アメリカが今後、東アジアの安全保障から手を引き、中国が覇を示すようになったときを案じている点は、中野剛志さんなどの安全保障観も持ち合わせていると思います。
これは、まさしく現実に即した保守の主張です。左翼に対する親米保守ではこのような主張はでてこないでしょう。この点は、佐藤さんの「僕たちは戦後史を知らない」の主張とも一致しています。
フルート says:
11月 5, 2014
お返事度々すみません!(まず朝出かける前に急いで書いちゃった「訂正」の部分の再訂正をちょっとさせて下さい・・。「✕『現実』と観えて 〇『現実的』に観えて」と言う様に少なくとも「と」もちゃんと「に」に変えて書くべきでしたよね・・)
新しいご質問の箇所はですね、例えば九条があるせいで、日本は国際政治に於いて一方的に割を食わされ続けてきたんだ!と保守派側は考えますが、しかし大多数の日本国民は本当のところ『九条なあなあ戦法』を選ぶ事によって、アメリカの無謀な戦争観との完全な一体化だけは避ける事に成功してきた訳ですから、こう見てみますとある種九条は、日本とアメリカとを分ける最後の壁の様な存在でもあったと思うんです。そうしますと改憲をするにしても、どの政権が、どの様な意図で改憲しようとしているのか?ここも良く見極める必要があるんだと思いました。(何と言っても安倍総理は改憲論者であるのと同時に、竹中さんに代表されるアメリカ的経済観の推進者でもありますし・・)私も勿論施先生支持なのですけれど、この点を考えてみますと、改憲はするべきでも、やはりそれは慎重にするべきなのではないかなと考えております。
フルート says:
11月 5, 2014
あっ!もしかすると今雪月花さんのご質問の本当の意味が解ったかもしれません!
(アメリカこそ世界最大の理想主義国と考える事もできますし)ここの部分ですね!
私は理想主義にもいろいろな種類があると考えておりまして、一つ目は反戦ですが、その反対に、戦争をする事によって自国の価値観を敗戦国側に押し付けられると考える・そう思える理想主義もある筈です。つまり人工国家アメリカの事なのですが、こっちの意味での(アメリカこそ世界最大の~)だったのですがここ省くべきじゃなかったですよね。。度々失礼致しました。。
カインズ says:
11月 3, 2014
アルゼンチンタンゴを嗜む施先生との、ダンサー対談本なども読んでみたいですね。やはり、違う意見がぶつかった方が、より物事を深く考えられて面白いですから。今回の「憲法九条を保持する日本国民」のノーベル平和賞ノミネートに関しても、護憲だろうと改憲だろうと国民がどこまで本気で考えるかにかかってくる問題でしょうし。結局本気で考えず、危機的状況になってからいざ改憲するとなったなら、最早手遅れという気がします。
KAZU says:
11月 4, 2014
おはようございます。
久しぶりにコメントを書かせていただきます。
昨今、佐藤さんのブログや三橋経済新聞での配信などを拝見していて、必要以上に他の論者の方に攻撃的なんじゃないかなぁという感想を抱いており、失礼ながら少し食傷気味になっておりました。
誤解の無いように申し上げますが、常々佐藤さんが書かれていらっしゃることは個人的には首肯できる点や気づかされる点が多く毎回楽しみにさせていただいておりました。
なので余計に残念に感じていたところでした。
今回、この点を明確に謝罪されたこと、大変素晴らしく思い、敬意を表します。
今回議論になっている点についても、佐藤さんのご主張、施さんのご主張いずれにも納得させられる点がございます。
佐藤さんと施さんの間に何かわだかまりがあるのかどうか知る由もありませんが、一読者として今回の佐藤さんの謝罪で過去のことは水に流していただき、お二人が紙面を通じてどんどん議論を深化させていただくことを希望してやみません。
その様なことを通じて我々一般国民も考えることを続けていかないと、「日本は取り戻せない!」のではないかと感じる次第です。
SATOKENJI says:
11月 4, 2014
ありがとうございます。
私は見解の違いが際立つような書き方を好むところがあるのですが、
それが攻撃的な印象を与えていたのですね。
申し訳ありませんでした。
もとより施さんにたいしては、何らわだかまりを持っておりません。
なお「おはよう寺ちゃん」でも、この点について謝罪いたしました。
空き缶 says:
11月 4, 2014
>>私は見解の違いが際立つような書き方を好むところがあるのですが、
それが攻撃的な印象を与えていたのですね。
私は佐藤さんのその様な物言いは決して嫌いではないのです。
例えばラッキー古○と共演されたTV番組等の言い様は笑いが込み上げてきもしました。
しかし、もしもその番組内で「戦争になれば逃げると言っている方もおられるようですが、それは果たして可能でしょうか?何故かはこの本を読んで下さい!」
と言ったとすればそれは例え所詮彼の様な人間に対してだとしても失礼ではないでしょうか。
本人の目の前で喧嘩を売ったにも関わらず真剣でないからです。
彼の意見が正しいかどうかではなく、佐藤さんが言論人としてです。
今回の件は私にはその様に感じました。
そして謝罪はまずこのブログでするよりも新日本経済新聞の方で、そして何よりも一番最初に施さんに直接仰るのが先ではないのかなあと思った次第です。
SATOKENJI says:
11月 5, 2014
申し訳ありません。
私は施さんに直接、ご連絡するルートを持っていないのです。
「新日本経済新聞」でも本日、謝罪いたしました。
ただし配信日が毎週水曜と決まっていますので、
それを待っていると「おはよう寺ちゃん」の後になってしまいます。
番組でコメントする前に表明するのが礼儀と考え、
まずサイトで謝罪した次第です。
ご理解いただければ幸いです。
tug says:
11月 4, 2014
メルマガ内で議論がなされることは、多様な意見があり、それが交わされることでむしろメルマガの健全さの証明になる部分があり、メルマガにとっても議論される相手にとってもメリットが有ると考えられます。
そして、レベルの高い内容の議論は、読者にサジェスチョンを与え考えることを促す効果が見込めると思われます。
今回は、どちらが正しいというより、どちらにも理があることで、思考を昇華していくタイプの本物の議論になることを期待しております。
マゼラン星人二代目 says:
11月 4, 2014
>そして謝罪はまずこのブログでするよりも新日本経済新聞の方で、そして何よりも一番最
>初に施さんに直接仰るのが先ではないのかなあと思った次第です。
謝罪はされるべきだし、された方もそれを素直に受けいれれば結構だと私も思います。
が、同時に、議論をするとき参照できるものや前提が共有できないときどうするか、という課題は残ったままであることを忘れてはいけないでしょう。
雪月花 says:
11月 5, 2014
今日のラジオ聞きました。
9条にノーベル平和賞を!の話ですが、なるほど!そこに落ち着いたかと思いました。
保守がどれだけ消費税増税反対しても、国会ではウチワ騒動しているんだから、9条がノーベル平和賞とっても何の影響もないってのは納得いきますね。
ただ、定量的には分からないですがちょっとは影響あるんじゃないかなとも思います。
9条(笑)やノーベル平和賞(笑)はそれ自体には何にも力がないでしょう。
しかし、○○(笑)を大義名分とするのが日本の文化みたいなところもあるので厄介です。
例えば、歴史的には、何の軍事力もない天皇を取り合うことで、江戸幕府を創ったり、明治維新をしたわけですよね。実際、日本人は、国連(笑)や、自由(笑)、平等(笑)、民主主義(笑)が大好きですし、そういったものを掲げながら平然と無視する米国も結構好きです。
本音と建て前を使い分ける日本人にとって、建て前なんてものは空虚でも構わないのでしょうね。
9条にノーベル賞運動の本音が見えてこないのが怖いですが・・・。
もし、建て前と本音が別れておらず、建て前=本音になってしまっているとすれば、左翼の知性の劣化をこそ恐れるべきかもしれませんね。馬鹿は何するかわからない。