お待たせしました。

RAISONDETRE さんのコメントに戻ります。

 

水島社長による朝日批判のポイントを、

RAISONDETRE さんは三つに分類しました。

 

1)「(朝日は)日本を貶めた」

2)「(朝日は)戦後レジームだ」

3)「(朝日は)言論テロだ」

 

このうち(1)については10月11日の記事

「反日報道はアメリカのしわざ?」

で取り上げましたので、そちらをどうぞ。

ここでは(2)を取り上げます。

 

RAISONDETRE さんのコメントは以下の通り。

 

2.「(朝日は)戦後レジームだ」

「戦後レジームは安倍晋三の中にもある。私の中にもある。全ての日本人の中にある。

今までこの状況を放置してきた我々にだって責任はあるんですよ」と言ってたじゃないですか。

ならば正確には「朝日新聞は戦後レジームだが、我々もその一部であり、責任者でもある」と言うのが筋でしょうよ。

 

論旨は明快ですね。

「朝日は戦後レジームだ」という表現には、

「朝日だけが戦後レジームだ」という含みが暗黙のうちにこめられてしまうのです。

 

もしそうなら話は早い。

朝日さえ打倒すれば、戦後レジームからの脱却、ないし解体は達成されることになります。

しかし、むろん実際にはそうではありません。

 

水島社長が(正しく)指摘してきたように、

戦後レジームは安倍晋三の中にも、水島社長の中にもある。

いや、戦後を生きているあらゆる日本人の中にあるのです。

だからこそ「レジーム(社会体制)」と呼ぶに値するんじゃないですか。

 

「朝日新聞を糺す国民会議」のアピール文は、

朝日新聞打倒は、戦後体制脱却への大きな第一歩となります。

と謳っていますが、

正直なところ、これはマユツバものと言わねばなりません。

 

日本人の中にある戦後レジームが変わらなければ、

朝日を解体・廃刊に追い込んでも何も変わらない。

逆に日本人の中にある戦後レジームが変われば、

解体・廃刊に追い込むまでもなく、朝日は勝手に保守化、あるいは右傾化する。

 

・・・これが真実だと思うのですが。

 

と言うと、

朝日は戦後レジームの総本山的存在であり、ゆえに打倒することには意義がある!

なんてコメントが来るかも知れないので、

事前に釘を刺しておきます。

 

朝日新聞が戦後レジームの総本山(的存在)だというのは、

同紙への過大評価にすぎない。

 

クオリティ・ペーパーであろうとなかろうと、

新聞ごときが社会体制の総本山たりうるものか。

戦後体制の総本山と呼ぶに値するものがあるとすれば、

ずばり自民党をおいてほかにありません。

 

1955年の結党以来、一部の例外的な時期(約六年間)を除けば

政権をずっと担ってきたんですから。

(注:しかも六年間というのは、自社連立による村山政権を含めての数字。

これも除いてしまうと、四年ちょっとになります)

 

「古い自民党をぶっ壊す!」と宣言した

某元総理ではありませんが、

本当に戦後レジームからの脱却や、同レジームの解体をめざすのなら、

自民党を解体・消滅に追い込むことをめざすべきでしょう。

 

しかし、もちろんそういう話にはならない。

なぜか?

安倍政権擁護の立場を取るかぎり、それでは都合が悪いからです。

向こうは自民党の総裁ですもんね。

 

だとしてもこれでは、

ご都合主義と言われても仕方ないんじゃないでしょうか?

 

ついでに「戦後レジーム」を、そこまで頭ごなしに否定して良いものか。

わが国の繁栄は、当の戦後レジームのもとで築かれたのですよ。

 

戦後レジームを解体してみたら、

繁栄を取り戻す見込みもパアになってしまった!

これでは話になりません。

 

その意味で最近、気になっているのは

相手に「戦後レジーム」や「反日勢力」などのレッテルを貼れば

あとは全否定しても構わないと言わんばかりの振る舞いが、

保守派(の一部)に見受けられること。

 

ハッキリ言いますが、こんな態度は

相手に「保守反動」や「小市民」などのレッテルを貼れば

あとは全否定しても構わないと言わんばかりの振る舞いを見せた

かつての左翼と何も違わない。

 

政治(運動)には、とかくそういう「魔法の言葉」がつきものです。

しかし人間が魔法を使うと、だいたいロクなことはない。

言葉のイメージだけがふくれあがったあげく、自滅するのがオチ。

 

そして言葉の使い方がいい加減な者が、真の保守であった例はないのです。

ではでは♬(^_^)♬