「敵への心理的依存と思考停止に関する平松テーゼ」Ⓒ

みなさん、すでにおなじみでしょう。

 

自分(たち)よりも明白に劣っている存在、

ないし

自分(たち)と違って、明白に間違っている存在

を設定し、

○○だから劣ってる

○○は間違っているに違いない

○○だったら、どんな攻撃をしても許される

○○が褒めるものは間違っている

という形で

自分(たち)の正しさを確認しようとする者は

相手が劣っていること、

ないし間違っていることを

みずからのよりどころにするため、

否定しようとしているはずの

当の相手の存在に

いつしか依存しはじめる。

 

つまりは相手を否定しているようでいながら

「心おきなく否定できる存在」として

永遠に存在しつづけてくれること

暗黙のうちに望みはじめるのです。

 

とはいえ、この点を認めてしまうと

自分の立場が破綻してしまうので

これについては

1)ひたすら考えないように努め

2)他人から指摘されるとキレてごまかす

ということになる。

 

要するに思考停止に陥るのです。

 

かりに日本から反日左翼と呼ばれる人々が消えてなくなったら

目下、保守を名乗っている人々(の大半)がどうなるか、

ちょっと想像してみれば

平松テーゼⒸの正しさは容易に納得してもらえるでしょう。

 

何をどうしていいものやら分からなくなり

際限ない内ゲバの果てに滅ぶこと請け合いではありませんか。

 

しかるに平松テーゼⒸの重要性を

もっと雄弁に裏付けた文章があります。

フランスの映画監督、ジャン=リュック・ゴダールについて論じた

映画評論家・佐藤忠男さんの一文。

 

ゴダールはもともと左翼的傾向が強く、

とくに1960年代末〜1970年代にかけては

革命志向の極左映画ばかりつくっていたのですが

佐藤さんはこう論じるのです。

 

革命を志しながら、

彼ほど、般に革命に必須と信じられている

煽動から遠い人間も他にいないであろう。

 

アメリカの南部愛国主義者

(注:「国民の創生」で有名なD・W・グリフィス監督を指す)と

ソビエトの社会主義映画人

(注:「戦艦ポチョムキン」で有名なセルゲイ・エイゼンシュタイン監督を指す)と、

まるで立場の違う両者には共通点がある。

 

こうだ!

こうだ!

こうだ!

だから敵はあいつで、

あいつをやっつけさえすれば万事解決するのだ!

というふうに

断定的に映像を使ってゆくのがそのやり方である。

 

しかし、

じつは煽動こそがすべての革命の

堕落の源泉だったのではないか。

 

扇動的表現は、論理を単純化し、

すべてを敵と味方に分け、

敵は全部悪であり、

味方は全部善であるというふうにしてしまう。

 

この単純さによって切り捨てられた部分が、

すべての革命を内側から腐らせてきたではないか。

 

言い替えれば平松テーゼⒸとは

扇動的表現、

ないし扇動的思考方法の危険性を指摘したものなのです。

 

そしてグリフィスとエイゼンシュタインが、

そろって槍玉に挙げられていることが示すとおり

表面的なイデオロギーが何かという点は

ここでは意味を持ちません。

 

右だろうが左だろうが

煽動的な表現や思考方法にアグラをかきたがる者は

平松テーゼⒸ送りの運命が待っている。

 

だ・か・ら、

『右の売国、左の亡国』というのですよ。

 

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 (↑)中野剛志さんはこれを読んで「左亡右売」という四文字熟語を思いついたそうです。

 

ならばジャン=リュック・ゴダールは

どんな映画のつくり方をするのか。

ふたたび佐藤忠男さんを引用しましょう。

 

彼は逆に、

こうではない、

こうでもない、

この映像は間違っている、

この映像も正確ではないのではないか、

というふうに

映像を吟味しながら継いでゆこうとするのである。

 

従って彼は、

どんな革命的党派からも受け容れられる筈がない。

(中略)

革命のための思考方法そのものを革命しなければならない

というところまで行ってしまうのである。

 

・・・ここで思い出していただきたいのが

平松さんが監督した「イブセキヨルニ」。

劇中、デモ隊の掲げたプラカードの一つには

こう書かれていたのです。(↓)

 

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© さかき漣 © nihon animator mihonichi LLP.

 

このスローガンと

革命のための思考方法そのものを革命しなければならない

というゴダールのあり方の共通性は

もはや明らかではないでしょうか。

 

平松テーゼⒸが示しているのは

保守か左翼・リベラルかという区分より

煽動に安住するか

自分(たち)の正しさを疑うだけの思慮を持つかという区分のほうが

ずっと重要ということなのです。

 

ジャン=リュック・ゴダールにしても

表面的な左翼性にもかかわらず

その懐疑主義的な知性はむしろ保守主義に近いと言えるでしょう。

 

ではでは♬(^_^)♬