西部邁先生の主催する雑誌

「表現者」(MXエンターテインメント)の72号が

15日に発売されました。

 

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わが連載「一言一会」も25回目となりますが

今回のテーマは「失われた右手を求めて」。

 

24回目「戦後日本の『しあはせ』の条件」に続いて

今回もこうの史代さんの漫画

『この世界の片隅に』を取り上げます。

 

片渕須直監督のアニメ映画版ではなく

原作である漫画版にポイントを置いているのは

そのほうが論点が明確に浮かび上がるから

というだけのことであり、

別に深い意味はありません。

 

さて。

 

ご存じの方も多いでしょうが

『この世界の片隅に』のヒロイン・北條すずは

1945年、

米軍の時限爆弾によって右手を失います。

 

しかるに右手というのは

生命力やポテンシャルの象徴として

しばしば使われるんですね。

 

最も有名な例はミケランジェロの「アダムの創造」でしょう。

ここでは神の右手がアダムに生命を吹き込む。

 

これを見事なまでに上手くパクったのが

スティーブン・スピルバーグの『E.T.』です。

 

しかるに「右手=生命力・創造力・ポテンシャル」とすれば、

暴力や破壊、さらに戦争は

生命力・想像力・ポテンシャルが本来の目的に反する形で使われている点で

右手の暴走だということになります。

そしてポップカルチャーはこちらの例にも事欠きません。

 

スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』では

アメリカの核戦略学者ストレンジラブ博士の右腕が

勝手に動いてナチの敬礼をやらかす。

しかもこの右腕、義手なのです。

 

大友克洋の『アキラ』でも、

超能力にめざめた少年・鉄雄の右腕が巨大化、

鉄雄を巨大な胎児のごとき化け物にしてしまう。

この右腕も義手でした。

 

デヴィッド・クローネンバーグの『ヴィデオドローム』では

ビデオの幻覚世界に入り込んだ主人公マックスの右手が

持っていたピストルと一体化。

 

ジェームズ・キャメロンの『ターミネーター2』でも

敵側のターミネーター、T1000の腕が

左右そろって刃物や針に変化しました。

 

・・・以上の文脈を踏まえて考えると

すずが戦争末期に右手をなくすというのは

彼女が絶対平和主義に近い立場の人物であると

象徴的に表していることになるでしょう。

 

それはいいのですが

「右手=生命力・創造力・ポテンシャル」

とすれば

この設定は1945年以後のすずが

生命力・想像力・ポテンシャルを欠いた存在であることも意味してしまう。

 

いや、本当にそうなのかも知れませんよ。

だとしてもハッキリしているのは

この点が浮き彫りになったら最後、

物語はハッピーエンドになりようがないこと。

 

だってこれ、

戦後日本は片輪である

と象徴的に言うようなものですからね。

 

上記の問題をカバーすべく、

こうの史代さんは

(アニメ版の片渕監督もですが)

いかなる操作を行ったか?

 

それが今回のテーマです。

 

答は「表現者」を読んでのお楽しみですが

ひとつヒントを。

『この世界の片隅に』とは

ずばり正反対の操作をすることで傑作となった映画があります(※)。

 

(※)ただし『この世界の片隅に』が駄作だと言いたいのではないので、念のため。

あれはあれで優れた作品です。

 

2015年のデンマーク=ドイツ合作映画

『ヒトラーの忘れもの』(マーチン・サントフリート監督)。

 

サントフリート監督が行った操作とは何か?

それは観客に何を提示したのか?

言い替えれば、ヒトラーならぬ

『この世界の片隅に』の忘れものは何なのか?

 

「失われた右手を求めて」、ぜひどうぞ。

ではでは♬(^_^)♬

 

(↓)ますます意気軒昂な西部先生です。

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