ノーベル賞作家・大江健三郎さん

1970年の著書「核時代の想像力」において、

このように述べています。

 

核兵器の存在の意味、

それが人間に、あるいは人間の想像力にたいして与えたひずみについて

持続的に考えつづけてきた思想家、(中略)

もっとも典型的な思想を一貫して発表しつづけてきた思想家は誰だろうか

と考えますと、

ぼくはそれがやはりジャン=ポール・サルトルだというべきだろうと思うのです。

(103ページ。表記を一部変更)

 

ならば、核兵器をめぐるサルトルの思想とは何か。

1954年、ベルリンで開かれた平和会議において、サルトルはこう語ったそうです。

 

われわれの戦争、人間の戦争は、

やはり歴史的に発展してきた(注:歴史を通じて進歩した、の意)。

 

中世では兵隊が戦っているそのそばで

農民が苦しみながら働く、というようなことであったわけですが、

近代にいたって、国民戦争の時代が来た。

すべての国民が戦争に参加する時代です。

そのあと、人民戦争といいますか、

民衆が自己解放のために戦う戦争であるところの

人民戦争にまで、戦争は歴史的に展開してきた。

ところが核兵器が出現したことによって

この歴史的な発展の流れが、いわば逆転してしまったのだ。

(同)

 

私なりに整理すれば以下の通り。

 

1)かつて戦争をすることは、権力者(王と貴族、および彼らに従う傭兵)の特権だった。

その意味で、戦争の勝敗によらず、一般の民衆は抑圧されつづけた。

 

2)近代に入ると、一方で産業革命によって武器の量産が可能になり、他方で民衆の政治参加が進んだ。

戦争は国民全体でするもの(いわゆる総力戦)と位置づけられ、

ゆえに民衆は戦争のあり方に(一定の)発言権を持った。

 

3)20世紀に入ると、武器の性能はますます向上し、かつ民主主義の理念が世界的に浸透した。

つまり一般民衆が悪しき権力に抵抗、より良い政府をつくるために戦争をすることが当たり前になってきたのである。

言いかえれば人民戦争の段階にいたり、民衆は戦争の決定権を握った。

(注:ただしこれは、サルトルの言う「人民戦争」が20世紀以前になかったことを意味しません。

たとえばアメリカ独立戦争は、18世紀後半に行われたにもかかわらず、人民戦争の定義を満たします)

 

4)ところが核兵器の出現によって、戦争はふたたび権力者の特権となってしまう。

一般民衆は核兵器を持てないからである。

 

大江さんもこうフォローしています。

 

核戦争においては、ひとつかみの人間、ほんの数人の人間が、

戦争の決定権を握ることになります。(中略)

それはすなわち、国民戦争から人民戦争へと展開してきた戦争の歴史の

最も反動的な逆転である。

すなわち核戦争とは、歴史的にいっても、もっとも反動的な戦争である、

核兵器はもっとも反動的な武器である。

 

ぼくは、かれ(サルトル)の核兵器についての定義づけが正しい考え方だと、

それは現在考えてみましても、

なお核兵器についても、もっとも中心的な定義づけと

呼びうるのではないかと思っています。

(同、104ページ。表記を一部変更)

 

しかしですな。

サルトルの論理にしたがうと、核の拡散は望ましいことになります。

核兵器をめぐる独占が弱まることになりますので。

 

論より証拠、

サルトルは反核の立場を取っているにもかかわらず、

1961年にソ連が核実験を再開したときや、

1960年代半ばに中国が核実験を行ったときは、

留保をつけつつも評価する姿勢を見せました。

 

ならば、核兵器の個人所有が可能になった日には、

核兵器は反動的な武器でなくなりますし、

核戦争も反動的な戦争とは言えなくなる。

 

民衆が権力に抵抗すべく、(小型)核兵器を使用することも可能になるからです。

人民戦争を是とするかぎり、サルトルはこれを肯定しなければなりません。

だとすれば生物兵器や化学兵器など、他の大量破壊兵器についても同じことが言えるはず。

 

ここで話を、イスラム国の生物兵器開発に戻します。

 

イスラム国の行動は、サルトルの区分に基づけば明らかな人民戦争。

何せ国家権力をまだ十分に確立していないのですから、

権力者が勝手に戦争をしているとは言えない。

「イスラム国の国民」も、その存在が(国際的に)まだ認定されていない以上、

国民戦争だとも言えない。

 

残るは人民戦争あるのみです。

そしてアメリカは現に、イスラム国をつぶそうとする姿勢を見せている。

 

よってサルトルの論理を踏まえるなら、

イスラム国の生物兵器開発は、

大量破壊兵器を独占したがる大国の横暴への抵抗という点で

戦争の歴史の展開を正当に反映したものであり、

肯定されねばならないのです!

 

そんな主張は、いい加減な観念論にすぎない?

なるほど、そうかも知れません。

しかし横暴な権力に対抗するには武装するしかないというのも

この世のいつわらざる現実。

 

そして生物兵器は、

比較的カネをかけずにつくることができて効果絶大という、

まさに民衆が武装するうえでは、もってこいの代物なのです。

 

ここで思い出されるのが、アメリカの有名な拳銃

コルトをめぐるエピソード。

コルト大佐という人が開発したのですが

発売当時のスローガンはこれ。

 

神は人間をつくったが、コルト大佐は人間を平等にした!

 

つまりコルト拳銃を持っていれば

体力差のある相手も怖くない、というわけです。

 

だったら大量破壊兵器の拡散は、諸国家を平等にすると言えるのではないでしょうか。

 

アメリカをはじめとする大国の行動が

つねに正しいと仮定するのでもないかぎり、

イスラム国の行動には、 少なくとも全面的には否定しえないものがあると言わねばなりません。

だから世の中は難しいのです。

 

ではでは♬(^_^)♬