昨日の記事

「国家への信頼感とは」について、

KAZUさんより、以下のコメントをいただきました。

 

佐藤さんが仰っていること、

国家への信頼感が大事だということ、

全くその通りだと思うのですが、

若干違和感があります。

 

「国家への信頼感」とか「国家と国民の対立」という時、

国家と国民は別の物である、

ということが隠れた前提になっていますよね。

国家って国民が纏(まと)まって生きていくためのもので、

本来区別しがたく渾然一体となっているものなのではないでしょうか?

ちょっとお花畑な考えでしょうかね?

 

国家と国民は、本来区別しがたく渾然一体であるというのは

少なくとも「国民国家」においてはその通りだと思います。

 

だとしても

国家と(個々の)国民の利害がつねに一致するわけではない

ということではないでしょうか。

 

べつに国家を批判しているわけではありません。

家族の中でだって、利害対立は生じるのです。

「親しき仲にも礼儀あり」ならぬ

「渾然一体でも利害対立あり」というだけの話。

 

裏を返せば、利害対立がありうるというだけで

国家と国民は別物 と前提する必要もありません。 

 

そして一体感、ないし連帯を保ちつつ

利害対立を調整するうえでは

信頼感の存在が不可欠、ということになると思います。

 

大島さんの話に出てきた教師の言葉が

「阿呆な論理の遊び」を超えたものを持っているのも、

潜在的な利害対立を信頼感で克服することの重要性を

暗に説いているからではないでしょうか。

 

しかるに、この話の悪ガキよろしく

人々が「腹減った」と言って皇居に詰めかけることが、

敗戦直後には本当に起きたわけであります。

1946年5月19日の「飯米獲得人民大会」、

いわゆる「食料メーデー」。

 

これについては、明日のブログで。

ではでは♬(^_^)♬