新日本経済新聞に書いた記事
「『国民を見捨てない国』の大事さ」に関連した話を。
この中で、
戦前の日本には国家への信頼感があったが
戦後にはそれが失われてしまった という
映画監督・大島渚さんのコメント
(エッセイ「<パパ> この健気な英雄」より)を紹介しました。
しかるに大島さん、
同じエッセイで、こんなエピソードも披露しているのです。
1932年生まれの大島さんは
小学生のとき教師からこう教わります。
日本の子どもはすべて、天皇陛下の子どもである。
だから陛下のためにも勉強し、身体を鍛え、
戦争の際には死を覚悟で戦わねばならんのだ。
するとです。
いつの時代にも、生意気なガキはいるもので、
こんな質問をする生徒がいたらしい。
そうかえ、わいら陛下の子どもかいな、
ほんなら腹減ったら、陛下に食べさしてくれいうたらええわけやな・・・
関西弁なのは原文のままです。
これにたいし、教師はどう答えたか。
大島さんによれば以下の通り。
そうである。
陛下は君たちひとりひとりの腹の減り具合まで、
ちゃんと知って心配してくださっている。
だから君たちは、陛下にご心配をかけないように
腹が減っても辛抱しなければならんのだ!
このエピソード、こんなコメントで締めくくられます。
年少の読者諸君よ。
阿呆な論理の遊びと言うなかれ。
たしかに当時の少国民たちの心は
自分は陛下の赤子(せきし)であるということで支えられる部分もあったのだ。
(大島渚「魔と残酷の発想」、芳賀書店、1971年。表記を一部変更)
国家への信頼感とは、
こういうやりとりが成立することではないでしょうか。
エドマンド・バークは「フランス革命の省察」において、
騎士道のすぐれた点は
身分秩序を乱すことなく、社会全体に「高貴なる平等」と呼ぶべきものをもたらすこと
と論じましたが、
くだんの平等の背後にあるのは、このような信頼感だと思います。
平等が、高貴でもありうるというのは素晴らしいですね。
ではでは♬(^_^)♬
8 comments
マゼラン星人二代目 says:
1月 16, 2015
>そうである。
>陛下は君たちひとりひとりの腹の減り具合まで、
>ちゃんと知って心配してくださっている。
>だから君たちは、陛下にご心配をかけないように
>腹が減っても辛抱しなければならんのだ!
すると、かの余りにも有名な、
「汝臣民飢えて死ね、朕はたらふく食ってるぞ」
というフレーズは、これの裏返し、パロディということになるのでしょうか。
akkatomo says:
1月 16, 2015
今現在だと「国民は飢えて死ね。金持ちはたらふく食っているぞ」
と言った所でしょうか。戦後も行きつくとこまで行き着いた感
八津二郎 says:
1月 16, 2015
戦後日本は国民が国家を信用しなくなったのでしょうか。
それとも国家が国民を信用しなくなったのでしょうか。
麻生太郎財大臣は「この2年で株価は1万7千円まで上がった。円安にも振れた。その結果として企業は大量の利益を出している。出していないのは、よほど運が悪いか、経営者に能力がないかだ」と言いました。
http://www.asahi.com/articles/ASGD64WB9GD6ULFA001.html
しかし、現在の日本はあらゆる経済的な数値は悪くなる一方です。
麻生氏のこの言葉には「俺たち政府はこんなに頑張っているのに、国民は何をやっているんだ!」という気持ちが入り込んでいると考えてしまいます。
また、麻生氏は「儲かってないのは能力がないからだ」とも言っています。
そして現安倍政権は、日本の岩盤規制を崩し、日本に外資が入ることを外国に頼み、外国人労働者を積極的に入れようと躍起になっております。
これは日本国民は信用できないから、外国の力を借りたいという思惑があるのではないでしょうか?
このような態度から、少なくとも現政権は日本国民を信用していないと私は考えています。
どうしてこのような事態になってしまったのでしょうか?
そもそも日本国民はいつから政府を信頼していたのでしょうか?(まさか明治維新の最初からということもないでしょう)
『戦前の国民が陛下の赤子(せきし)であるということで支えられる気持ち』は現在の私には本当に分からなくなってしまいました。
『国民が政府を信頼するとき』がどのようなタイミングなのか。それが分からなければ、この政府と国民のねじれは解消しないように思います。
akkatomo says:
1月 16, 2015
一つ言える事があるとすれば、国内の問題を解決するのに
外国を引き入れるような指導者は
とんでもない災禍を国に齎しかねないという事だけです
古代中国などにその典型例が見られます
それだけは絶対に避けるべきなのに、どうしようもない連中ですわ
国を乱すような事しかしない政府じゃ、そりゃ信用されないに決まってる
信頼というのは日々の行動心がけ以外にはありません
トラストミーといって信頼されないからと国民を裏切るのは
政治家以前に一人の大人として余りにも出来が悪く思われます
信頼されて当たり前と思ってるなら思い上がりも甚だしい
お灸どころかウィッカーマンにしてやるべきです
akkatomo says:
1月 16, 2015
後、頑張っても評価されないと申しますが
無能な働き者は無能な怠け者より軽蔑されるでしょうよ、と
延々と間違った事を繰り返し続けて被害を拡大し続けているのに
俺達の頑張りへの見返りを呉れよ、というのは通らない話です
カインズ says:
1月 16, 2015
8割「政治に期待できない」=年金、少子化に不安-新成人http://www.jiji.com/jc/zc?k=201501/2015011200119&g=soc
このような記事が出る世の中ですからね。政治はもちろん、天皇陛下に対する親近感を持っている人もごく少数なのではないでしょうか?現政権の政策を見ても、この流れが加速していくように思われてなりません。
KAZU says:
1月 16, 2015
おはようございます。
佐藤さんが仰っていること、国家への信頼感が大事だということ、全くその通りだと思うのですが、若干違和感があります。
「国家への信頼感」とか「国家と国民の対立」という時、国家と国民は別の物である、ということが隠れた前提になっていますよね。国家って国民が纏まって生きていくためのもので、本来区別しがたく渾然一体となっているものなのではないでしょうか?ちょっとお花畑な考えでしょうかね?
その様な観点から今回ご紹介いただいたエピソードはとてもいいエピソードだと感じました。
ソウルメイト says:
1月 23, 2015
三橋貴明さんの新日本経済新聞に二回に渡ってお書きになられた記事を拝読しました。国民か国家を信頼する勘所は、国家は一人といえども国民を見捨てないという決意であり、スタンスであるとの指摘は、まさしくその通りだと思いました。そう望もうが望むまいが国家というものをなくしてしまえるはずもありませんから、なるべく善政を行う政府を希求したいものです。そう望もうが望むまいが政府は存在し続けるのだとしたら、政府がよきものであることを願い、その実現に務めるしかないと思います。国家や政府は、不可避的に存在するものだと思いますご、それをよ善いものとするかどうかは、国民一人ひとりの意識と覚悟にかかっているんでしょうね。