句読点とは、

文を読む際の呼吸の区切りを示すものであり、

われわれの「精神の肺活量」ともいうべきものと

深い関係がある。

 

これが昨日までの話です。

 

精神の肺活量とは、

要するに「一息でどれだけの言葉を取り込めるか」

ということ。

 

文章を書く側にすれば、

「一息でどれだけの言葉を吐き出せるか」

ということでもあります。

 

ちなみにテンションの落ちてきた物書きは、

たいがい読点(、)の量が増えてくる。

 

つまりは息切れしているのです。

 

さて、以上の点を踏まえて、

「日本を、取り戻す。」

を眺めてみましょう。

 

KAZUさんによれば、

「、」と「。」が引っかかる、

バカにされているような気がする。

とのこと。

 

この言語感覚、私に言わせれば非常に健全です。

 

まずは読点。

どうして、ここになければいけないのか?

 

「日本を取り戻す。」

で何が悪い。

 

この文は、文字数にして7文字、

音数でも9音しかありません。

一息で言えて当たり前。

どうして、4音目「を」の後で息を継がねばならないのか。

 

別の政党が、かつて掲げたスローガン

「日本を、あきらめない。」

なら、まだ分かるのです。

 

「日本をあきらめない。」

だと、ひらがなが続いて読みづらい。

視覚的な区切りとして、読点があったほうが良い。

 

しかし「日本を、取り戻す。」の「、」を

この点から正当化することは不可能。

 

つまりこのスローガンは、

読む側の精神的な肺活量がきわめて低い

ことを想定しているのです。

 

どうせ読点でも打っておかないことには、息切れするに決まっている。

そんな発想がうかがわれるんですね。

いや、自覚はないでしょうが。

 

あるいは某政党のみなさんのほうが

これくらい読点を多くしておかないと息切れする程度の

精神的肺活量しか持っていない、

そういうことなのでしょうか?

 

それはそれで、国民をバカにした話ですな。

 

句点「。」については明日やります。

ではでは♬(^_^)♬