8月5日の記事
「句読点を軽視すべからず part4」に
Kanataさんよりコメントがありました。
全文をご紹介します。
もうこれは、批判のための批判としか思えませんね。
「日本を、取り戻す。」は、一般論的に言って、どこから見てもケチのつく文章ではありません。
「日本を、取り戻す。」と「日本を取り戻す」では、見た目の印象は、明らかに前者の方が強い。
技術論的に言えば、文章は肺活量の問題だけではなく、見た目の印象も重要です。
「日本を」の後の読点は、いま日本人の手にあるとは言えない、その日本というものを強調しています。
最後の句点は、読点を打った際に最後に句点をつけるのは習慣的なものです。
最近では句点を打たない文章も増えているので、これは好き嫌いの問題ですね。
これにたいする答えは簡単。
見た目の印象の強さで言えば、
「日本を、取り戻す。」よりも
「日本を取り戻す!」
「日本を、取り戻す!」
のほうがさらに良い。
なぜ、そうなっていないのか。
ちなみに最後が「!」であれば
「日本を」の後に読点があるのも分かります。
強く言い切る前に、息を継いで
見得を切る効果を出すということで。
しかし某政党のスローガンは、ここまで言い切ることを避けている。
ふつうに考えると、
そこまで断言する自信がないのだろう
ということになります。
日本を、取り戻す!
と叫んでおいて、実際にはできなかったら
おい、責任を取れ!!
と、「!」が倍返しになるのは確実。
つまりこのスローガンの問題は
本当は腰が引けているくせに
見得を切ることだけはしたい
という、セコい態度にあるとも言えるでしょう。
だからバカにされたと感じる人が出てくるのですよ。
ついでにもう一つ。
「日本を、取り戻す。」は、一般論的に言って、どこから見てもケチのつく文章ではありません。
という箇所は、
「一般論的」が「一般的」の誤記である点を別とすれば
基本的にその通り。
この程度にいい加減なキャッチコピーは、今や巷(ちまた)にあふれています。
しかし、日本のあり方を大きく変えることをめざす(違うの?)政党が、
一般的にはケチをつけるほどではない
という程度の言葉づかいに安住すること自体、
同党が日本を取り戻せるかどうかについて、多くを語っている。
おまけにこのスローガン、
民主党の「日本を、あきらめない。」と
構造的には瓜二つ。
それで何が政権交代。
それで何が戦後レジーム脱却。
それで何が「新しい国へ」。
──という次第でありました。
自民党と民主党の本質的な共通性については、
『僕たちは戦後史を知らない』の
「螺旋(らせん)階段の三〇年」という章で
さらに詳しく論じています。
あとはそちらをご覧下さい。
とくに Kanataさんは読まなければダメですよ(笑)。
ではでは♬(^_^)♬
5 comments
kanata says:
8月 6, 2014
「私の第3の矢は悪魔を倒す」とか、「日本の電力市場を開放する」とか、TPPや移民政策など、安倍総理の売国政策は、さすがにここまで言えば、自分が本気で言っているとは保守派は信じないだろう、ということを見越した上での発言ではないか?と僕は思うのですが、考えすぎでしょうか。「一般的」ではありませんね。コメントを取り上げていただき、ありがとうございます。「僕たちは戦後史を知らない」はぜひ読ませていただきたいと思います。
john doe says:
8月 6, 2014
安倍政権の政策は日本のアメリカ化ですからね。しかしこんなものは、元々劣悪なものをさらに劣化コピーしたに過ぎませんません。
マスターキートンで巨匠の贋作で生計を立てている画家の話がありましたが、何十年と贋作を書き続け、いざ、自分絵を描こうとしたところ自分のタッチが全く画けなくなっていたという話がありました。
巨匠の画風を完全にマスターしたのは良かったですが、気が付いたときには巨匠に完全に取り込まれて、自分の画家としてのアイディンティを喪失していたのです。これって今の日本にも通じますよね。
フルート says:
8月 6, 2014
自民党のポスターに書いてあります「日本を、取り戻す。」で私が一番感じたのは、佐藤さんが90年代からずっと指摘されてきました自民党の政党ポスター(二人のこどもが空を仰いでいるのですが、こどもだけじゃなくその絵全体が、そのタッチ事態がこども化をしている)との整合性のことです。(大人に為りきれない?)大人達が、自身らの未来への正統性を保持しようと子供を(未来を)取り込んでしまっている・食い物にしてしまっている・・そのような構図・・勿論自民党だけではなくて幼稚化の本家本元の(?)共産党の方も言葉のフレーズにしてもホームページのゆるキャラにしてもすごいものがあるのですけれど、私はどちらも現在を見失っている点で一緒で変だなと思います。
愚零闘 覇多 says:
8月 7, 2014
某政党のこのスローガンからは、「不誠実さ」と「変革(変身)願望」が垣間見えるように思われます。
また、「誰もいちいち“句読点”なんか気にしないだろう」という不誠実な態度からは、「誰もいちいち“政策の詳細な内容、それが包含する意義”なんか気にしないだろう」という国民への姿勢が滲み出てるようにも感じます。
この傲慢さ・大雑把さは、新自由主義的政策が有する“単純な改革志向”に通底しているのではないか、もしそうであるならば、言葉の持つ繊細さや多元性を考慮しない者が、自身が実行する政策に対して、その意義やそれが社会に与える影響等を考慮出来るはずもなく、結局は思考放棄に陥り、阿呆でも出来る浅はかな改革へと逃げてしまうのではないかと思えるのです。
其の癖、「何か大きなことは成し遂げたい」、「人とは違うことをやってみたい」、「人とは違う存在になってみたい」という欲求だけは強いものがあるため、そのスローガンの表面的なスケールは大きくなりがちであり、それ自体にはたいした意味を持ち得ないものになってしまうのではないかと考えます。
Daniel says:
8月 7, 2014
お見事です。。佐藤健志様の慧眼に敬服致しました。
私は最近、三橋貴明氏の『三橋貴明の「新」日本経済新聞』からこちらを辿ってきた者です。
かなりピュア?な保守だと任じております。
実は昔、三橋氏の言論は嫌いで、経済分析、提言には賛成するものの、お話では党員ということですから仕方がないんですが、自民党への贔屓の引き倒しに辟易としていたものです。(別に保守だから自民党というわけではないでしょう。強いて言えば、昔の自民党旧田中派が好きでした、というと、一定以上の世代の方からはある程度ご納得いただけると思います)最近、氏も批判に転じましたので、ひとまず安心して経済評論を読んでいるところです。
さて、何だか皆さんの議論が、端的に言えば、安倍支持から不支持へ、或いは、なお安倍支持か、に大体二分化されているようですので、敢えて、ちょっと膨らみを持たせたいと、「最初っから安倍不支持、彼には全然信用を置いていなかった。全くもってやっぱりだね。」という立場を述べさせていただきたいです。
「日本を、取り戻す。」などという空疎な謳い文句に当初から絶望していました。仮にも保守なら、もっと緊張感のある、現実の厳しさを踏まえた表現があるのではないですか?
ただ、人間とはそれでも甘い期待をかけるもので、昨年10月1日に消費税増税を決めるまでは、頼むからやめてくれと、私は祈るような気持であったことも正直に告白しましょう。
なお、集団的自衛権容認も断固反対です。論理の飛躍もいいところ。更なる従米政策に踏み込んで、一体、どうやって国を保つ気なのか、正気を問いたい。
時にすみませんが、佐藤先生のご著書には、諸環境が整わず、暫らく読めませんが、整いましたら、是非読ませていただきます。
せわしいのでタイムリーに議論はできないかもしれませんが、佐藤先生、皆様方、どうぞよろしくお願いします。