昨日の記事の続きです。
中野剛志さんとの対談「日米関係のコモン・センス」にたいする
永田伸吾さんという人の批判を取り上げているのですが、
昨日取り上げた箇所の次には、もっと傑作なくだりがある。
永田さんいわく。
対談に通底しているのは、
日本人の対米認識を「親米保守」「反米保守」「左翼」の3類型に分類し批判するようでいながら、
結局のところ「親米保守」と「左翼」の批判を主目的としていることである。(中略)
(しかし)日本人の対米認識は以上のように3類型に分類できるほど単純なものではなかろう。
こう書いてある以上は
四種類目以後の対米認識について、
永田さんの説明がほしいところです。
しかし、これについては何もない!
たんなる説明も、中途半端に合理的な説明も、全く合理的な説明も
どれ一つとしてありません(笑)。
言っては何ですが、
永田さん自身、四種類目以後の対米認識を思いつかないんじゃありませんかね?
ただそれだと、われわれの対談を批判できなくなるので、とりあえずこう書いた。
まあ、そんなところでしょう。
引用した箇所の最後が
3類型に分類できるほど単純なものではなかろう。
と、推量形になっているのがその証拠。
自分の言っていることに責任を取りたくない、
ないし責任が取れないとき、
インテリはこういう腰の引けた言葉づかいをするのです。
「そんな単純なものではない!」と言い切ってみせるがよろしい。
むろん、その場合は言い切ったことにたいする責任が生じますがね。
とはいえ最大の傑作は最終段落。
永田さんいわく。
覇権国アメリカの凋落を不可逆的な流れとの前提で対談が進められているにもかかわらず、
アジア・太平洋地域におけるグローバル・コモンズ(国際公共財)と
アメリカとの関係を無視していることに違和感を覚えた。
米中関係、日中関係、中国・ASEAN関係、
そしてアジア太平洋地域に存在する同盟・パートナー網などの変数を考慮にいれず、
日米関係を2国間関係の文脈だけで語ることについても同様である。
本対談は対象を過度に「単純化」することにより、生産性のある議論の土台を欠いたものであると指摘せざるを得ない。
まず最初の三行。
対談のタイトルを読み返してみましょう。
「日米関係のコモン・センス」ですよ。
「アメリカの衰退とアジア・太平洋地域の現在」ではありません。
したがって
「アジア・太平洋地域におけるグローバル・コモンズとアメリカとの関係」なる話題は
対談の文脈において(大きな)ポイントにはなりえない。
ページ数の制約だってあるわけだし。
しかも中野さんは、
アメリカが東アジアの国際秩序維持から手を引こうとしている点に触れています。
安定した国際秩序も、グローバル・コモンズに含まれると思うのですが。
次の三行もスゴい。
日米関係って、日本とアメリカという二国間の関係のことですよ。
つまり「日米関係を2国間関係の文脈だけで語る」ことに違和感を覚えるというのは、
「二国間関係を、二国間関係の文脈だけで語る」ことに違和感を覚えると主張するにひとしい。
二国間関係って、
まずもって二国間関係の文脈で語るべきじゃないんですかね?
もしかして永田さん、
あらゆる国家関係は、少しでも関連性のある他の国家関係すべてを考慮に入れなければ論じられない
と思っているのかも知れません。
この発想にも一理ないわけではありませんし、
永田さんの生真面目な発想には感心させられるところもある。
しかし、そこまで手を広げると
議論がまとまりを失い、結局のところ何が言いたいのかハッキリしなくなることのほうがずっと多い。
論より証拠、
永田さんの文章など、たいして長くもないのに何が言いたいのか分かりません。
「オレはこの対談が嫌いだ!」という感情だけは伝わってきますが、
これは「論」のうちには入らないでしょう。
議論においては、
ポイントが明確になるよう、適度に単純化することが重要なのです。
これを別名「論点の整理」と申します。
過度の単純化は感心しませんが、単純化をしないようでは議論が成立しない。
ああも言える、こうも言えると繰り返す、思考の堂々めぐりが待っているだけであります。
そして最後の文、
単純化がカギカッコに入っているのはなぜなのか。
論評自体のタイトルもそうなっていたのですが
ある言葉をカギカッコに入れると
「本当はそうではない」というニュアンスが生じます。
つまり永田さんに正常な日本語の感覚があると仮定した場合、
彼は本当のところ、われわれの対談が過度に単純化されたものだと思っていないことになる。
だとすれば、論評の前提が崩れます。
逆に永田さんが、われわれの対談について
過度に単純化されていると本気で思っている場合、
彼に正常な日本語の感覚はないと指摘せざるをえません。
というわけで、結論。
「ロックンロール・コンフィデンシャル」という本に出てきた一節に由来します。
どの箇所でも、
永田伸吾は自分の書いていることの意味を認識しておらず、
どうでもいいと考えていることがにじみ出ている。
上っ調子の文章はすぐに主題から逸れる。
そうやって思考の欠如を隠蔽し、
究極的には話題を永田伸吾自身に向け、
中野剛志や佐藤健志は大したことはないが、
永田伸吾だけは賛美に値すると言いたがっているのだ。
ピンと来ましたか、カマキリさん?
ではでは♬(^_^)♬
6 comments
カマキリ says:
9月 4, 2014
自分ではうまく頭を整理できなかったのですが、漠然とした違和感を
ここまでわかりやすく文章化して下さり、ありがとうございました。
kato says:
9月 4, 2014
4種類目は、米国とははた迷惑な性向を持つ国であり、それが如何に素晴らしい装丁のされた理念と行動であっても、色々眉唾だぞ!という常識や一般通年に照らして当たり前の結論を出す姿勢。すなわち中野さんや佐藤さんはじめ、表現者塾とかで話されてる内容を共有出来る人々の対米認識。これで完成じゃないですかね?まあ、かくいう私も、米国を過大評価してた時期がありますが。戦後長らく、親米と反米の保守と左翼の3つしか存在しない様子だったのは、誠に寂しい限りですね。(でしたね。で結びたい所ながら、これ未だ、現在進行形かも知れない。)
もー says:
9月 4, 2014
永田伸吾さんが彼自身の主張の理由を述べていないのは、「そんなことは誰でも知っている」状態にあるからなのかな。
第3段落で「評者自身は~ではなかろうか。」と200字以上も重要度の低いことを書く余裕があるなら反例の1つくらい書けばよいのに。
今回の永田さんの記事は論理がひどくて笑えませんでした。
ニコニコ動画に載っていたなら「お前が言うな」とか「ブーメラン」という言葉が流れそう。
もー says:
9月 6, 2014
追記
「反例を挙げる際には、理由・説明が必要な場合もある」ことをここに記しておきたいと思います。
せい says:
9月 6, 2014
4つ目「親米ノンポリ」・・・洋楽とか聞いてる兄ちゃんとか
5つ目「親米サヨク」・・・文化は好きだけど平和ボケした人達
6つ目「親米グローバリスト」・・・保守でも何でもない安倍とか。
なんだ、書こうと思えば俺でも思いつくじゃん。
ガイソン says:
9月 8, 2014
私の気のせいかもしれませんが、単純化することはいけないことであるかのような議論をよく目にするように思います。ただ、私は単純化することが悪いことだとは思いません。佐藤さんがおっしゃるように、適度な単純化は議論に不可欠だと思います。
というのも、そもそも単純化しないと、議論についての正確な理解は成り立たないと思うからです。
ある論点(例えば日本人の対米認識など)を議論するとしても、自由な言論が保障されている限り、論点に対する理解は無数に存在しえます。こうした無数の理解を、なんの整理もせずに正確に理解するのは土台無理な話です。議論の正確な理解という観点からは、議論をある程度単純化(例えば、親米保守、反米保守、左翼)して思考の大枠とし、それを踏まえて細かい議論に入る方が建設的ではないかと思います。
また、永田さんの論理がひどいという皆さんの意見にも賛成です。正直、読んでて相当わかりにくい文章でした(対して、佐藤さんの文章はわかりやすかったです)。ただ、今の日本だと論理的な文章を書ける人の方が少ないのではないかという気もしているので、「こんなものかな」という気もしました。