昨日の記事
「トランプ就任式の『柔らかい官能』」でも紹介した
イギリスの作家J・G・バラードは
こんな名言も残しています。
Today, the most prudent method of dealing w/ the world
is to assume it is complete fiction.
The one node of reality left is inside our heads.
現代の世界に対処する最も賢明な方法は何か。
すべてを純然たる虚構と見なすことだ。
現実への糸口と呼べるものは、われわれの頭の中にしか残っていない。
さすがは
この世はすべて宇宙のジョーク
と喝破した魔術師、
アレイスター・クロウリーを生んだ国の作家ですね。
しかし世界を純然たる虚構と見なすことは
裏を返せば
いわゆる虚構と、いわゆる現実の区別が消滅することでもある。
それが世界に対処する最も賢明な方法というのは
思えばなかなかトリッキーです。
さて。
話題のアニメ「この世界の片隅に」の片渕須直監督が
1月9日、こんな連続ツイートをしました。
お願いがあります。
私どもの手で「この世界の片隅に」のロケ地マップを作りましたが、
辰川バス停から先、
北條家(注:主人公一家の住居)があると想定されるエリアについては、
あえて地図には載せていません。
そこから先は道の狭い一般住宅地で、
そこに住まわれる方にご迷惑がかかるのを恐れてのことです。
それは原作者こうの史代さんご自身の
危惧されているところでもあります。
そうした地域では車がすれ違えない狭い道を辿るしかないのですが、
タクシーで乗りつけて来られる例があって危ない、
という現地の声もこちらに入っています。
また、実際に残る段々畑は実質山地で猪が出るなど危険です。
旧上長ノ木・畝原・惣付のあたりは
いわゆる「聖地巡礼」の目的地とされませんようお願いいたします。
すでに当該エリアを訪れられた方は
現地の写真をネット上にアップされないよう
お願い出来ればと思います。
(明らかな誤字を一字修正)
片渕監督、およびこうの史代さんの懸念は
まことにもっともです。
しかるに興味深いのは
「この世界の片隅に」というフィクションのアニメ映画に登場する地理的描写と
物語の舞台となった場所の現実の地形との間に
かなり忠実な対応関係が成立しているはずだという発想がなければ
(かつ、本当にかなり忠実に対応していなければ!)
そもそも、このような騒ぎは起こりえないこと。
実写なら分からなくもありませんよ。
ロケ地の地形を大きくいじることは物理的に無理です。
ただしそれでも、さまざまな手法で
実際には存在しない架空の空間をつくりだすことはできる。
たとえば「ラストエンペラー」のベルナルド・ベルトルッチ監督がつくった
「暗殺の森」と「ラストタンゴ・イン・パリ」では
パリでの撮影が行われていますが
映画に登場するパリの「地理」は
現実のものとはかなり異なっていると言われます。
実際に撮影した場所とは違う地名を使っていたり、
主人公の乗った自動車が
よくよく考えてみると
えらく変わったルートで市内を走っていたりするらしい。
けれども映画の文脈においてリアルに感じられれば
それで構わないわけです。
ドキュメンタリーじゃないんですから。
ましてアニメでっせ。
すべては絵なのです。
劇中の空間描写に整合性があるかぎり
それが現実の地理を正確に反映している必要はありません。
つまり現実の地形が忠実に再現されているからといって
「この世界の片隅に」が優れていることにはなりませんし、
逆に架空の地形が描かれていたとしても
だからダメということにはならないのです。
フィクションのリアリティとは、
あくまでその作品の中でのものなのですから。
にもかかわらず、
どうも今では
実写ならぬアニメのリアリティまでが
どこまで現実に忠実かという尺度で計られかねず、
かつ実際に忠実になっている様子。
でなければ「聖地巡礼」なんて成立しません。
つまりわれわれは
アニメと現実をまったく同次元に置きはじめているのです。
これが虚構と現実の区別の消滅という
冒頭で述べた現象の表れなのは明らかでしょう。
現実を虚構と見なすことこそ
現代の世界に対処する最も賢明な方法だとすれば
「北條家」を求めて聖地巡礼する人々は
2010年代の日本のあり方に賢明に対処しているのだと言えなくもない。
とはいえ、バラードの言葉を振り返ってみましょう。
彼はこうも述べているのです。
現実への糸口と呼べるものは、われわれの頭の中にしか残っていない。
そうです。
いくら聖地巡礼しようと、
舞台のモデルとなった場所に「北條家」は存在しません。
北條家の現実への糸口は
「この世界の片隅に」という作品を享受する
われわれの頭の中にしかないのです。
だってそうでしょう。
こうの史代さんの原作でも、片渕監督のアニメでも
北條家の人々はみんな四頭身(ぐらい)に描かれているのですぞ。
こうのさんなどアニメ版を観て
「(絵が)動くと頭身の低さが際立つな」
とコメントしたほど(上映パンフレットより)。
\(^O^)/現実世界の広島に、四頭身の人々からなる家族が存在すると思いますか?\(^O^)/
ではでは♬(^_^)♬
4 comments
GUY FAWKES says:
1月 15, 2017
一昨年の表現者シンポジウムで私が失礼ながら押し付けた伊藤計劃という作家さんもバラードと全く同じ言葉を遺しています、
「人は己自らがフィクションであることから逃れられない」と。
件の伊藤さんの処女作であり、小松左京賞最終選考まで残った長編小説『虐殺器官』に登場するキーパーソンとなる
言語学者のキャラクターがバラードの愛読者でした。
新著の準備とご執筆、お怪我のリハビリで多忙を極める大変な日々とは思われますが
お手隙がございましたら是非ともご一読していただきたい一冊です。
せい says:
1月 15, 2017
聖地巡礼もすっかり町おこし的な意味合いで使われるようになったので
制作側もそれに引きずられるのかもしれません。せっかくだから地方を活気づけよう、みたいな。
昔のゲームは、ドット絵で誰がどうみても虚構だとわかるので、バラードによれば
それに巨ハマりしていた私は、真に現実を見据えていたと言えましょう。ゲーム脳こそが真実への鍵/(^o^)\
saika says:
1月 16, 2017
佐藤先生は以前、この映画を「ジブリ的キレイゴト」と喝破されてましたが、
私はかなり感動したクチだったので、その意味がよく分かりませんでした。
しかし、片渕監督のコラムやらツイートやらインタヴューやらを目にする内に、
佐藤先生のおっしゃることはもっともだと感じるようになりました。
こうの史代さんは漫画のあとがきで、自身の死生観について少し触れられていますが、
すずがどこか利発で自意識が強く、冷ややかで(兄が死んでよかったと思うような)、
死ぬことをことさら忌避しない性格の女性として描かれている部分があるのは、
そういった作者の死生観によるところが大きいのだと思います。
しかるに、片渕監督は原作のすずから棘のある言葉を注意深く抜き取り、
「戦争に無知で無自覚な庶民」としてすずを描いています。
「昭和19年の5月、政府中央はこの時期すでに負け戦は必至と考えていた。そんなこととも知らず・・」http://www.mappa.co.jp/column/katabuchi/column_katabuchi_06.html
「そうやっていつの間にか戦争に加担してしまっていたことに、玉音放送を聞いた直後、すずさんは恥ずかしかったんじゃないでしょうか」
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/bunka/list/201701/CK2017011402000211.html
この映画でのすずは、ただ愚かな、片渕監督の愛玩具のような存在に成り下がっている、と感じます。。
この作品のリアリティについては、これは「ヒトやモノの成り立ちと行方」を等価に扱うことで生まれているのでは?と思います。「楠公飯や紫電改やすずの右手や口紅」といったものの成り立ちと行方を同じ目線で追わされるので、日常モノと戦争モノの接続にリアリティが感じられるのではないでしょうか。登場人物の名前のほぼすべてを元素名からつけているこうのさんらしい表現で、片渕監督もこの辺はとてもよい仕事をされていると思います・・。
玉田泰 says:
1月 27, 2017
アニメーションの中に現実の風景を見出そうとするのは、中々にトリッキーですね。
「猪がでるなど危険」という言葉に妙にリアリティを感じてしまう僕はやはり虚構を見ているのでしょうか?
物語が純然たる虚構に寄っているのなら、我々の「現実」とは「四頭身(ぐらい)」なのでしょうね。