1月に入水した西部邁先生については
自殺を幇助した者がいるのではないかという話が
先月ぐらいから出ていましたが
ついに逮捕者が出ました。
それも二名。
『西部邁ゼミナール』を担当していた
窪田哲学ディレクターと、
西部塾の一期生だという
会社員の青山忠司さんです。
西部先生、
この先、介護や看護で周囲に迷惑をかけたくない
という大義名分のもと入水したわけですが
知り合いを2人も犯罪者にしてしまうようでは
迷惑をかけたくないも何もあったものではない。
お嬢さんの智子さんは
NHKの取材にこう応えています。
父がご迷惑をおかけして本当に申し訳ない気持ちです。
2人とも真面目で、父が頼まなければ犯罪とは関係の無い人たちでした。
父からの依頼を断ってくれればよかったのにと思います。
私は以前から
西部さんの自殺は思想的破綻の産物だ
と論じてきましたが
ここまで来ると、もはや思想以前という感じです。
『表現者』を受け継いだ藤井聡さんも
これまで散々言ってきた事と、実際やってたことが全然違うじゃないか
と、メルマガで激怒。
いわく。
(西部さんは)自分のプライベートな自殺に、
わざわざ二人の一般男性を巻き込んだわけです。
しかもこの男性二人には、奥様もお子様もおられます。
つまり、このご家族にしてみれば、
西部先生のせいで旦那さんやお父さんが逮捕されてしまったわけですが、
それは、「迷惑」なぞという悠長な言葉では
表現し難いほどに巨大な「迷惑」だと言えるのではないでしょうか。
さらに。
芝居がかった口調での「一人で死んでいく」というセリフと、
二人の男性に幇助させて自殺させてもらったという最期の振る舞いとの間には、
埋めがたい巨大な「ズレ」があると言わざるを得ません。
この様に西部先生のお言葉を一つ一つ振り返ってみると、
最後の振る舞いと、それらお言葉の間には、
巨大な矛盾が横たわっており、
どうにもこうにもツジツマが合わなくなってしまっている様子が、
浮かび上がって参ります。
要するに西部先生のクライテリオン(価値基準)は
根底から崩れていたのではないか? という次第。
(↓)なんか、入水こそが日本沈没だった感じですな。
『表現者クライテリオン』も大変です。
逮捕された窪田さんが所属するMXエンターテインメントは同誌の版元。
となれば、普通に考えて同誌からも撤退するでしょう。
新しい版元から出すしかないと思いますが
刊行スケジュールは維持できるのか?
だいたい西部先生のクライテリオンが
ここまで崩れていたと分かってしまったあとで
「表現者」の看板を掲げつづけるべきなのか?
ついでに16日発売の第2号(通巻78号)は
まるごと西部邁追悼号。
何というか、これ自体が宇宙のジョークという感じではありませんか。
藤井さんが激怒するのも、もっともと言わねばなりません。
(↓)周囲に迷惑をかけたくないというのは本当だったのでしょうか?
(↓)「生前のお言葉は単なる『ウソ』だったのか『冗談』のお積もりだったのか」(フェイスブックより)
それにしても、
保守界隈もあちこちで総崩れになりつつある感が。
これで安倍内閣が倒れたら
保守派はあえなく滅亡かも知れませんよ。
『竹取物語』によれば、
「あえなく」はもともと「アベ(阿部)なく」から来ているんですからね・・・
(↓)ただし、だからこそ価値基準の模索は必要です。というわけで、この4冊をどうぞ。
ではでは♬(^_^)♬
19 comments
感情 says:
4月 7, 2018
不謹慎な意見だとは思いますが、この件を知った時、正直安心した。それと同時に、好感を抱きました。
どこまで知を追求しようが、西部邁という男も所詮はただの人間だった。それで良いと考えています、人間だもの。
佐藤氏の大ファンで、著書から色々と学び取ろうと向き合ってきていますが、これからは西部氏の著書も読んでみるつもりです。
GUY FAWKES says:
4月 7, 2018
>つまり、このご家族にしてみれば、西部先生のせいで旦那さんやお父さんが逮捕されてしまったわけですが、それは、「迷惑」なぞという悠長な言葉では表現し難いほどに巨大な「迷惑」だと言えるのではないでしょうか。
> 芝居がかった口調での「一人で死んでいく」というセリフと、二人の男性に幇助させて自殺させてもらったという最期の振る舞いとの間には、埋めがたい巨大な「ズレ」があると言わざるを得ません。
>この様に西部先生のお言葉を一つ一つ振り返ってみると、最後の振る舞いと、それらお言葉の間には、巨大な矛盾が横たわっており、どうにもこうにもツジツマが合わなくなってしまっている様子が、浮かび上がって参ります。
やっぱりな、結局「保守主義を謳う(騙るに非ず)非保守主義者」というのが実際のところだった訳です。
思ったのですが、西部邁の自裁死(そもそも無関係の人を巻き込んでいる以上、「自分」で裁ききれてないじゃないですか!!)とは
「ゼツボーが足りない!」と吠える某司会者に見られる「真正保守」だとか「本当の保守」などと持ち上げられた、
所謂「反米保守」の終わりの始まりではないのか。
思えば、佐藤先生の著書に見られる指摘を読む以前から彼等は所謂「極左」に属するグループと同等かそれ以上に先鋭的だった。
果たせるかな、「反米保守」は本質的に破滅へのチキンレースを行う以外に自己同一性を担保しない、
「非保守主義」によって「保守主義」を成そうとする傍迷惑な凶(狂に非ず)信者であることを自死によって証明したのです。
西部先生は自分が三島由紀夫で、窪田ディレクターと青山さんを森田必勝に見立てたつもりだったのでしょうか?
死者に鞭打つ若輩の無礼を承知で申し上げましょう、大間違いだ!!!(血涙)
自分の家族や弟子達、その他慕う人々を裏切るのは一千万歩譲って脇に置くとしても、自分の理念に背信するとは言語道断。
己自らの死と一緒に数々の言葉を泡沫に帰してしまった中で藤井先生の絶望たるや察するに余りある。
豆腐メンタル says:
4月 7, 2018
>ここまで来ると、もはや思想以前という感じです。
そういう片鱗を嗅ぎ取ったため、私の思考が「やまなし」にまで”遡った”のではないかと思いました。。どうりで自律でも他律でも解釈できないわけです。
>「あえなく」はもともと「アベ(阿部)なく」から来ているんですからね・・・
確か、「ア」は「遠くのもの」を指す言葉です。「あれ」の「あ」ですね。で多分、「ベ」は「部分」「一部」でしょう。
つまり「あえなく」は「将来のためにならない」、ひいては「断絶」という意味ではないかと想像します。
現状を鑑みるに、シニカルすぎて全く笑えませんねぇ。
う〜む。重い。。
とりあえず高畑勲さんに合掌。
5q says:
4月 7, 2018
学生運動に参加する際に「人を殺せるように頑張ります」と言ってみたり、
菅内閣に対しては「アレだけでいいんなら(殺しに)行きますよ」とか言ってみたり、
元々玉砕衝動はあったんでしょうね
その衝動が保守思想を体現せんとする意思よりも大きかったということでしょうかね
人の手を借りて自らを葬ることで保守論客という対外的な自分を特攻爆破した、と
戦後が欺瞞に満ちているなら、保守論客と言う己のアイデンティティ確立を社会的に支えていたものも
その欺瞞そのものであると言わざるを得ない
ならば保守論客という自己も破壊しなければならない
「財政悪化なくして財政健全化なし」レベルの矛盾した言い回しになりますが、
「保守を捨てることなくして保守たる己なし」と、こんな感じでしょうか
まあいいんじゃないですか
特に驚きはないです
むしろ遺書やロープ等の現場の状況の第一報が入った時点でこうなることは想定できない事ではないし、
今になって「嘘つかれた!」と憤るのも、なんともピュアというか、
「このヒト色々お話になってるけど、本当に分かってたんかね?」と訝しく思えますな
レギーム作 says:
4月 7, 2018
結果として1人では出来なかったというわけですから、
協力した方々にも問題があると思います。
押しの強い(しかもコワい)人から無茶な頼みがあったときに、
「いくらなんでもそれは出来ない!」と言い放てる勇気といいますか。
私は「断れないタチ」なのですが、映像で見た限り、
青山さんからそんな「匂い」を感じる取れるんですよね(主観ですが)。
風街 says:
4月 8, 2018
西部先生のお嬢様も心配です。
世の中には口さがない人がいますから、あることないこと、言われてしまうでしょう。
表現者の編集にもたずさわっていらっしゃったようですし、
また、藤井先生や佐藤先生をはじめとして、西部先生に対するまっとうな
ご批判も、それ故に、
(お嬢様には)辛いかもしれません。
くれぐれも精神科などにはかからないでくださいと申し上げたいです。
眠れなくて薬が欲しいと思う時もあるかもしれませんが、
銀谷先生のような精神薬より栄養療法に力を入れている先生の所にいかないと
ますます状態が悪くなってしまいます。
自殺幇助で逮捕された2名の方々は、執行猶予はつくのか?
勤めている会社に復帰できるのか?
保守である前に、常識が欠損していると言われても仕方ない
事態になってしまいました。
佐藤先生が仰るとおり、安倍政権が2013年に発足して以降、保守派の自滅が続きますね。
momo says:
4月 8, 2018
窪田氏はともかく、青山氏はゼミナールには出演していたので何となく分かります。
盲信者というようなイメージでした。
西部先生に頼まれたら粋に感じ、断れないというよりは喜んで承諾したのでしょう。
まあそれはどうでもよろしい。
問題は西部先生の方。
両二名以外にも自殺幇助を依頼できる人物はいるでしょう。例えば一番弟子の藤井先生や、佐藤さんに幇助してもらって死ぬのは格好がつきます。
しかし私の想像ではおそらく、藤井先生も佐藤さんもお断りするでしょう。西部先生を諭すか、叱咤する事もありえそうです。
とにかく、それでは自分の目的は達成できない。
通常の感覚を持った(少なくとも私はそう思う)人に計画を知られると頓挫する。
そう思ったからこそ、西部先生を心から敬愛した盲信者に依頼したのかなと。
そう考えると酷いもので、盲信者が盲目である事を利用して、彼らを犠牲に自分の目的を達成したわけです。
これはかなりショックでした。
西部邁よ、それがあんたの正義なのか。
と。
しかしそれで崩壊する保守は幻想のもの。
西部邁が人生をかけて批判してきたもののはず。(そんな連中とつるむ事が多く、保守派の広告塔にすらなった西部先生には多少ならざる疑問はあったし、今でも理解できないが)
西部邁という広告塔を失ってすぐに崩れ去るようでは新興宗教そのもの。
そんな紛い物はいらないでしょう。
(その結果サヨクが息巻いて大量破壊をし、「紛い物の保守の方がマシだった」となる事を考慮しないとすれば)日本は良くなるでしょう。
shun says:
4月 8, 2018
佐藤先生が正しかったですね。
正直、チャンネル桜の討論「追悼西部邁」で佐藤先生が
西部先生の自殺を批判されているのを聞いて、若干の苛立ちを感じた事を告白いたします。
(批判されても仕方ない部分もあるかな、と思っておりましたが)
それに対して私は西部先生も俗物だった、と
このブログのどこかの記事にコメントさせていただいたのですが
これはさすがに残念すぎます。
テレビ業界にも侠気のある人がいたんだな、と思う一方で
西部先生に対し「さすがにこれはダメだろ」とも思いました。
藤井先生の言葉に同調したくなります。
もう何も信じられないですね。あと信じるに足るのは自分とお金だけですかね。
信じられるものが無い人生は辛いです。
片隅の開業医 says:
4月 8, 2018
逮捕する方がおかしいのでは?
目を瞑ってあげればいいいいのではないでしょうか。
鬱病になれば死は魅惑的。「鬱病」でなくても、自殺する人は苦しみの極致にあると思います。鬱病でもなく、苦しみの極致でもない「自裁死」というものがあるという事に気づきます。
オランダでは安楽死が合法化されている(未確認)。そこには幇助を専門とする人(医師免許保持者)が関わるという。
西部先生の場合は「苦しくなかった」。「絶望」の果てに死を選んだ形と思います。不謹慎な言い方になりますが、「楽しく」「最
期を生きた」。「確信犯」。幇助された方々も「確信犯」。恥じる必要はないと思います。極めて日本人らしく、人間臭く、最期を飾られたと思います。
コバ says:
4月 8, 2018
結局佐藤先生が最初から仰っていた通り、西部先生は自殺支援をした人も含めて、自分の目の前から痛みも苦痛も家族も全て消し去ったんです…
消し去るのだから、支援者がその後どうなっても知らないのです。家族がどう思うかも知らないのです。知ろうと思う意思も全て目の前から消えるのです。
それを知っててそれでも自殺したのです…
佐藤先生がひたすら批判したのは必然なのです…
討論で誰かが配慮を徹底的にした自殺と言ってましたが、配慮した自殺?としか思えなかったですし、終始佐藤先生の意見が的を射ていると思いました。
残念ですがね…
拓三 says:
4月 8, 2018
感性を知性を使い論理化するには限界がある。
ならば感性の言葉を感じ取れるかが保守でしょ。
自殺を手助けされた方は命令でしかたなく行動したの ?
あるいは死に対しての苦しい論理付けに納得して行動したの ?
それとも「死にたい」と言う言葉に何かを感じとって行動したの ?
どの理由であれ法的問題は同じでしょう。
しかし私ならば最後の「死にたい」と言う言葉に魂を感じそして行動に移したならば、喜んで法的裁きを受けるでしょう。その行動により嫁子供が大変な状況に陥ったのならば、それこそ仲間を助ける行動こそ保守の思想でもある共同体の力だと思います。。
これは受けて側の思想でありますが、では発信側である西部進本人の行動はどうか問題視されていますが、一言で言えば知性は感性に敵わないであります。もっと言うならば革新は保守に敵わない。そして男は女に敵わない、が私の答えです。ただここは注意して見極めなければなりません。やはり知性と感性を正しく整理する必要があります。間違った情報から産み出された知性からの感性が横行する現代にいたって間違うリスクが多大であり解決策は難しくやはり感性から知性を築き上げる事を遠道ではありましが(本来の姿)重視するべきかと思います。その延長線で考えて行くと今回の西部進の行動は人生をかけた正しい情報提供ではないかと思うのです。
西部進に近しい人達には受け入れがたい言葉だとは思いますが私が好きな言葉が西部進が最後に言いはなった「嘘つき男のホラ話」です。
kanji says:
4月 8, 2018
初めてコメントさせて頂きます。
佐藤さんも藤井さんも、今回の件ではちょっとナイーブすぎるのでは、と正直思いました。
ナイーブというのは、保守というものを西洋風に合理的に考えすぎるという意味においてです。
私は西部先生の自死の心境も、それを幇助した方々の心境も、「日本の」保守の理念からすればおかしいものだとは思えない。
バークやチェスタートン流の「西洋流の」保守からすれば、自死というのは、生と世界そのものを疎外する悪なる行為なのでしょうが、日本人からすれば自死は悪とは限らない。
もちろん、佐藤さんも特攻隊などについては悪と断じてらっしゃらなかったはずですが、私は今回の西部先生の自死も、極めて日本人的なもので悪ではないと思います。
また、尊敬する人が考えぬいた上で自死を選ばれるのなら、「見届けますよ(介錯しますよ)」くらいは思ったっておかしくないし、その結果として法に反して逮捕されるとしても、それは覚悟の上だと思います。
法に触れるからといって、それが道徳的に必ずしも悪とは限らないでしょう。
むしろ日本の保守なら、「自殺を幇助してなにが悪い?」と問題提起するぐらいしないと。
ではなにが正義か悪か、という議論に進みたがる人もいるでしょうが、自死や介錯などの生死の際の問題においては、明示的に悪と正義を切り分けることはできない、というのが自分の考えです。
西部先生の著書を読む限り、先生もそのように思ってらしたのでは、と忖度します。
(もちろんこれは道徳的な問題について一切議論するな、という意味ではありません)
個人的に、日本の保守界隈を見ていて思うのは、「保守(conservative)」という概念が西洋由来のものであるがゆえに、日本の保守思想家たちの価値判断が西洋と日本の間でふらふらと揺れ動いて焦点が定まらなくなることがある、ということです。
いや、揺れ動くことそれ自体が必ずしも悪ではなく、それが平衡へと繋がるのであればよいのですが、どうも藤井聡教授も佐藤健志大兄も、今回の件を西洋の頭で考えすぎなのでは、と思った次第です。
「保守とはこういうものだ」と外側から保守を定義して、今回の自死はそれに反している、と批判することも意味があることかもしれませんが、内側から西部先生の心情を推し量ろうとする態度も必要なのではないでしょうか。
あけすけに言えば、癌で苦しんで手だってまともに動かなくなれば、そりゃ「もはやこれまで」と思って死にたくもなりますよ。
安楽死の制度が定まってない日本ならなおさらで、手遅れになる前に死ねる時に死んでおかないと、と自分だって思います。
チューブに繋がれて自死すら出来なくなるのは、ヤマトオノコからすれば胸の張れることではありません。
生きるチャンスを尊重するのと同時に、死のチャンスも尊重するという精神が日本にはあるはずです。
私は自殺を幇助して逮捕されたお二人は、西部先生を介錯なさったのだと思います。具体的にどのようなやりとりがあったかはわからないし、これからも判明することはないかもしれませんが、西部先生とお二人が納得済みのことであれば、道徳的に悪だとはちっとも思いません。
「死ぬときは他人に迷惑をかけるな」という意見もあるようですが、自死であれ病死であれ、人が死ぬときは必ず他人に迷惑をかけるものです。
「生」が必ず他人に迷惑をかけながら続いていく営みである以上、「死」だってそうなるのは当然です。
西部先生が著書の中で「死ぬときは一人」という趣旨のことを書いてあったとしても、それは「他人にまったく迷惑をかけずに死ぬ」ということを意味しているのではないでしょう。
世間では私の態度の方がナイーブと言われるかもしれませんが、日本の保守はこういう心情から出発して考えていった方がいいのでは、と愚考する次第です。
Kaoru says:
4月 9, 2018
〉KANJIさん
私はあなたの意見に完全に同意します。
逮捕から今朝までずっと考えてきましたが、先生はある程度こうなる事も見通していらっしゃったのではないかと思います。聡明な西部先生が自裁の状況からして、このような展開を予測できなかったとは到底考えられないからです。
だとするならば、先生は意図的にお二方を己の人生の幕引きに巻き込んだ事になります。
生前先生はよく、物語を伝統的な感覚に基づき独自に解釈していらっしゃいました。法的な問題も含めてですが、先生は人生最後に「お前達はこの死に際をどう解釈するね?」と問いかけたのかもしれません。
しろくま says:
4月 12, 2018
KANJIさんの意見に同感です。
日本では介錯する文化がありますからね。うばすてやまなんかも今の法律論でいえば法律違反になってしまうんでしょうが、藤井先生も佐藤さんも現代の法律論で考えすぎじゃないかと思います。
勿論法律なんて全く必要ないなんて思わないですが、死に際の問題は非常に難しい問題なのは事実であって
老夫婦のどっちかが介護疲れで死なせてしまったというのがたまにありますが、あれは法律的には駄目なんでしょうが、心情的には理解できる面もあります。今回の件はそれに似てます
風街マロン(旧:風街です) says:
4月 12, 2018
西部先生が万引きの件を本に書いた時から、矛盾することを平気でやる人だなと思っていました。そういう矛盾を、編集者やお弟子様、読者が、「さすが西部先生」と言い、本人が「それを真に受けた」結果がこれなのか。
私は中学1年生位まで、万引きをたまーにしましたが、乾物屋さんで万引きをするとは、もってのほかです!!!そういう所はご夫婦で経営している所が多く、万引きしやすいのです。小学校の時に駄菓子屋で万引きをした時に、後から友達が「あそこでやるのは、可哀相だからやめよう」と提案され、二人でやめました。西部先生の万引き事件を佐藤先生のブログで読ませていただいた時、私が思ったことは「小学生だった自分達ですら持っているような犯罪者の矜持がこの人にはなかったのか」ということでした。
万引きしやすいところを狙って、姑息です。やるなら、デパート、スーパーで御自分の万引きの腕(笑)を試してほしかったです。大人がやることではないですね。後から、そこの乾物屋さんで大量に買い物をするとか、後で犯罪の埋め合わせをするべきでした。
何故、こういうことを書くかというと、「弱い人をねらった」という点で同じものを感じたからです。
自殺はいけない、自殺幇助はいけないとは、言っていないのですよ。どうしてもしたかったら、やればいい。ただ、西部先生の場合は、自殺、もしくは介護殺人を犯すほかの日本人の人達と比べて、お金も、人脈もかなり恵まれていたと思います。幇助してくれる人が必要だったら、ほかにいくらでもやりようがあった。そして「警察にバレても、その後の社会的な影響が最小限度で済む人を選ぶべきだった。」と思います。
西部先生のお嬢様が、「まさか知っている人に頼んでいるとは思わなかった」とテレビで仰っていました。お嬢様も、西部先生が幇助を頼んだとしても、赤の他人にやらせて絶対に足がつかないようにしているだろうと思っていたということです。
西部先生が生きている時に、先生の大事なお嬢様に誰かが自殺幇助を頼み、名前と顔が世間に晒されて逮捕されたら、西部先生はどうするんだろう???
過去にその人がやったことは、いいことも悪いことも含めて、(たとえ神様だろうと)それを取り上げることは絶対にできません。西部先生が敗戦後の狂った社会で正論を発信し続けたことや、保守論壇において、先生の薫陶を受けた人がたくさんいること、他にももっともっと、あると思いますが、今回の自殺補助の件は時に流されて、先生の功績だけが残っていくのかもしれません。先生、あの世から自殺幇助をお願いした御二人に、土下座して謝ってください。
kanji says:
4月 12, 2018
>風街マロンさん
自殺幇助を赤の他人に頼むことの方が、金に物を言わせて弱者を操る、ひどい仕打ちとなり得ることもあると思います。
「警察にバレても、その後の社会的な影響が最小限度で済む人を選ぶべきだった。」というのは、私にはむしろ倫理的に卑怯なことのように思えます。
また、信頼できない相手に最期の自死の手引きを任せられるものでしょうか?
「自殺はいけない、自殺幇助はいけないとは、言っていない」とおっしゃるのであれば、実は自分の意見との相違はかなり少なくなるように思います。(万引きの件についてはここでは触れません)
問題は、今回逮捕されたお二人を、まるで西部邁から自殺幇助を強制された「被害者」としてのみ捉えようとしすぎているのではないか、という点です。
具体的に、西部先生とお二人の間にどのようなやりとりがあったかは、まだ詳らかになっておりません。
たとえば幇助されたお二人がまだ十代の少年であれば、西部先生が「誑かした」と言われても仕方ないでしょう。
しかしお二人は、どうやら妻子もいらっしゃる立派な大人のようです。
「妻子のいる人を巻き込むなんて」というご意見もあるでしょうが、むしろ妻子のある一人前の男の意志を尊重したいと自分は思うのです。
西部先生の自死の心境を推し量ろうとするように、幇助された方々の心境も推し量ろうとする態度が日本の保守には必要なのではないでしょうか。
逮捕されたお二人が、現在どのような心境なのかはわかりません。
ひょっとしたら後悔されているかもしれないし、男一代の仕事を全うしたと思ってらっしゃるかもしれません。
いや、どちらか片方だけの感情というのはきっと単純に考えすぎで、生死の際の行為が截然と善悪に切り分けられないように、おそらく現在の心境もどちらか片方だけということはないのではないでしょうか。
そうであるならば、幇助されたお二人を単純に「西部邁に巻き込まれた被害者」と見なすことは失礼に当たるのではないでしょうか。
もちろんこれは、お二人を英雄視することが正しい、と言っているのではありません。
法に反しても道義的に悪とは限らないと自分は思いますが、彼らは確かにある種の「罪」を背負ったのです。
目の前で尊敬する人が入水して命を絶ったのですから、その重みをもっとも感じているのはお二人のはずです。
そのお二人の心境を思わずして、軽々に外野が喋々するのは、良いことだとは思えません。
風街マロン says:
4月 13, 2018
>> そのお二人の心境を思わずして、軽々に外野が喋々するのは、良いことだとは思えません。
「軽々に外野が喋々するのは、良いことだとは思えません。」という点について、もっと具体的に教えてください。貴方様との感覚の違いだと思うのですが、言論の自由、批判、批評です。
風街ロマン says:
4月 13, 2018
個々の感覚の違い、認識の違いだと思うのですが、御二方は、逮捕を覚悟していたようには思えないのです。それよりも、警察にはわからない。と思っていたのではないか。だから、ここまでの騒ぎになるとは、考えていなかった可能性もあると思います。
浜崎さんのメルマガ(https://the-criterion.jp/mail-magazine/20180411/)で、私が言いたいことを100%書いてくれていますので、一部引用しますが、上記のリンク先を読んでみてください。
「・・・また、自殺幇助についても、西部先生と幇助者との間に、もし契約関係があったのなら――つまり、幇助者がやくざか右翼だった場合には――法的な問題はさておいても、絶対に許されない行為だとは考えませんでした。というのも、その場合には、双方の間には「利害」を確認し合った(金銭授受を含めた)大人の合意があったと考えられるからです。
しかし、今回逮捕され、その「容疑」を認めている二人の幇助者と西部先生との間にあったのは、おそらく契約関係ではありません。というのも、二人とも西部先生の思想に共鳴していた「弟子筋」にあたる人たちだからです――もちろん、私は二人と面識があります。そのことが明かになったとき、初めて私は、「それは絶対にちがう。先生は超えてはいけない一線を越えてしまったのではないか」という強い違和感を持ったのでした。
というのも、これは教育に携わる人間ならすぐ分かることだと思いますが、師の言葉(思想)というものは、その非対称的な関係性において、ときに圧倒的な力を発揮してしまうがゆえに、その力の用い方については細心の注意を要するものだからです。
たとえばそれは、精神科医と患者、教師と学生という非対称的な関係において、なぜ色恋沙汰が「禁忌」なのかを考えれば分かりやすい。その圧倒的な知識と論理、また、その精神的優位性を利用すれば、人の「心」に入り込み、それをある方向に誘導するなどということは朝飯前なのです。それゆえに、その力を上手く使えば(抑制的に使えば)、治療や教育に生かすこともできるわけですが、いや、だからこそ、その力を、依存関係の強化に使ったり、相手の人生を破壊するように使ってはならないのだということです。
もちろん、そうは言っても相手(自殺幇助者)も大人ですから、西部先生の言葉に応えることの責任の重さは十分に自覚していたはずです(いや、自覚していたと思いたい)。ただ、それは建前としてはその通りですが、ときに「言葉の力」は、その建前を突き抜けて作用してしまうことがあるということも事実だと思います。そして、そんな「言葉の力」を最も熟知していたのは、他ならぬ西部先生だったはずなのです。実際、私自身、西部先生の側にいながら、ときに発揮される、人を焼き尽くすようなその「力」を常に感じていました。
いや、だからこそ、西部先生は、「弟子」との関係においては、その一線を自覚しているはずだと思っていたのです。私が甘かったと言われればそれまでですが、藤井先生が指摘されている「言行一致」(倫理)の問題も含めて、そこは私は信じていたのです。
もちろん、西部先生とは言え、一人の人間。ときに見せる言行不一致も、人間的弱さも、人間的な迷いもあったはずです。でも、そんな時でも先生は、それを何とか、あの強靭な精神力でねじ伏せようとしていた。その精神の振幅こそが、西部邁という男の複雑さと、その激しさを作り上げていたものであり、またその魅力の中心にあったものでした。(中略)
とはいえ、今回のことは、西部先生と私との信頼関係の問題です。それを踏まえた上で言えば、この度の自殺幇助で、妻子ある一般人の逮捕者を二人も出してしまったことは、やはり、西部先生の「保守思想」を裏切ってしまっている事件だと言わざるを得ません――事実、先生は、「知識人ごとき」が、発言する場所も権利も持たない一般人を決定的に傷つけてしまうことは、厳に慎まねばならないと、いつも私の前で仰っていました。」(引用おわり)
_________________________________
いただいたコメントに関しては、コメントに対する反論は、ほとんど、ありません。細かく指摘するとめんどくさいので、はぶきますが、貴方のコメントのほとんどは私にとって「今回この意見を書くに当たって、自分の中では、当たり前のように持っている気持ち・又は前提条件」であり、私もそういう心情を持ってはいますが、「私にとっては、いちいち書くつもりのないもの」なのです。
だいたい貴方と似たような心情を持った上で(しかしそこから書き始めると、コメントが長大過ぎてしまうので書いていない。)、それでもなお、「やっぱりおかしい」と思う所を書いているわけです。それを書き出したら、このようにコメントが長大になってしまって、佐藤先生のブログをお借りするより、自分のSNSなどで書くべきだと思うので。。今回はコメントを頂いたので、このようにお答えさせていただきたいと思います。
玉田泰 says:
5月 6, 2018
西部氏は、人としての振れ幅が大きく、しばしば自らの巨大な思想をも踏み越えて仕舞うところがあり、そこが周囲を引き付ける大きな魅力なのでは?
と、感じていました。
ですが、今回の件に関しては、人としての振れ幅の大きさと言うより(本人は潔く決着をつけたつもりでも)、結局はその偉大な生き様をも台無しにする甘えだったのでは?
と感じられて残念です。