2月15日の記事
「保守主義者が自殺する条件、またはプラグマティックな死と生のあり方」
に関連して、
西部先生のどんなところを偉大と思うか
という質問がありました。
簡単にまとめれば、
1)時流に迎合せず、自分の言論を展開した。
2)専門分野にこだわらず、つねに論じる地平を広げていった。
3)これにより「(西部邁の)世界」と呼ぶに値する、多様性と整合性をもった言論を構築した。
4)その世界を「(保守言論の)世界」へと発展させるべく、雑誌刊行や塾活動を行い、多くの言論人の育成に貢献した。
となるでしょう。
〈世界〉を生んだ知識人、というわけです。
しかるに先生の残した世界が、
今後どうなってゆくかはまだ未知数。
ほかならぬ先生が、
最後になって
当の世界の連続性を否定するような振る舞いをやってしまいましたからね。
西部邁の世界は、安定的に発展・定着してゆくか?
それを占う重要な試金石ともいうべき
「表現者クライテリオン」の第一号(通巻77号)が
本日、発売されました!
まずは西部時代の最終号となった75号(※)と
クライテリオン第一号の表紙を並べてみましょう。
(※)76号は富岡さんが編集長に留任していますが、
西部先生は顧問を退いたという過渡期的な号です。
(↓)まさにビフォー&アフターですね。
良くも悪くも、それほど大きな変化は感じられません。
「表現者」のロゴが固い感じになったのと、
黒鉄ヒロシさんのオブジェがなくなったのとで
以前より真面目になった印象は受けますが。
これを今後、
どう舵取りしてゆくかが
藤井編集長の腕の見せどころ。
じつは私も昨年秋、
藤井さんから編集方針について相談を受けました。
エドマンド・バークの言葉で
西部先生も好きだった「保守するために変革せよ」を
キーワードにしてはどうかと提案したおぼえがあります。
西部さんは「表現者」世界の創始者であり、
その点で唯一無二。
ゆえに西部さん抜きで、従来の「表現者」をただ受け継いでは
雑誌の中核がない状態になってしまい、
本質が見失われる。
西部さんがいない状態で(※)
なおパワーやインパクトを保守するには
「唯一無二の存在が果たしていた役割を、唯一無二ではない存在でどうやって担ってゆくか」
という点に関する戦略がなければならない。
(※)亡くなる前から、「クライテリオン」には関与しないことになっていましたので。
この戦略は、必然的に変革をともなうだろう。
しかし変えればよいというものではなく、
「保守するための変革」としての一貫性や安定性を持っていることが求められる。
藤井さんも全面的に賛同していましたが、
これを具体的にどう実践してゆくかは
また別の話。
第一号の段階では
「保守するための変革」がまだ十分でない感もありますが、
そこはそれ、長い目で見てやって下さい。
藤井さんならやってくれるでしょう。
ちなみに私の連載「一言一会」は
分量を増やしたパワーアップ・バージョンで続行されます。
今回のテーマは「チャンピオンたちの価値基準」。
雑誌の特集が「保守とクライテリオン(価値基準)」であることを踏まえたものですが
アメリカの作家、カート・ヴォネガットが
1973年に発表した小説
『チャンピオンたちの朝食』がモチーフになっています。
保守主義者が言論のチャンピオンになるために
必要な価値基準は何か?
そういう意味に取って下さい。
それからもう一つ、
「だからこの世は宇宙のジョーク」という連載もやります。
タイトル通り、
真剣なテーマを、あえて軽く取り上げることで
生真面目な語り口では見えてこないポイントを提起します。
・・・とはいえ、
「表現者クライテリオン」第一号における
最大のジョークはこれかも知れません。
表紙をめくると
その裏側に
【人生の最大限綱領】として、
1ページをまるまる使い、
こんな言葉が記されているのです。
一人の良い女、一人の良い友人、一個の良い思い出、一冊の良い書物。
ギルバート・K・チェスタトン
ハイ、
自殺は単に一つの罪であるばかりではない、
それこそ罪の最たるものである。
と喝破した人です。
写真まで、しっかり添えられておりますよ。
『保守の真髄』の終わり近く、
西部先生はこの「人生の最大限綱領」について
若者に十回は語ったと述べています。
そしてさらに、
チェスタトンのこんな言葉も引いている。
勇気とは生き延びようとする努力のことである。
なるほど、このあとには
そして真の勇気とは死を覚悟してかかることである
という言葉が来る。
しかし「死を覚悟してかかる」と
「進んで死を選ぶ」が
いかんせんイコールでないのは
自殺にたいするチェスタトンの言葉が示すとおり。
チェスタトン、殉教は自殺と区別して扱う立場だったそうですので、
殉教は肯定、自殺は否定ということかも知れません。
そして殉教を「より大きな連続性を保守するための死」と考えれば
これは「保守主義者の自殺」をめぐる私の見解と一致します。
けれども、表紙のすぐ裏に
チェスタトンの言葉が写真入りで出てくるとは。
西部先生の世界を正しく継承することにつきまとう
ジレンマやパラドックスを
期せずして鮮烈に提示する形になりました。
してみると「表現者クライテリオン」第一号も、
立派に成功したと呼ぶべきなのかな?
(↓)現在、求められる価値基準とは? この4冊をどうぞ。
ではでは♬(^_^)♬
20 comments
豆腐メンタル says:
2月 16, 2018
購入しました!いろんな意味で中心におられる先生方の”若さ”に注目しております。
あと「阿呆」で先生とシンクロしてコーヒー吹きました笑
SATOKENJI says:
2月 16, 2018
>「阿呆」で先生とシンクロしてコーヒー吹きました笑
この阿呆とは、小説『チャンピオンたちの朝食』に出てくる小咄「踊る阿呆」のことです。
momo says:
2月 16, 2018
西部先生の真似をする佐藤さんの真似をして一言。
「あなたの言っている事は正しいと思いますが、こうとも考えられませんか。
西部邁は保守主義者ではない」
GUY FAWKES says:
2月 17, 2018
>西部邁は保守主義者ではない
なーるほど、確かにそれなら全てのツジツマが合うのかもしれません。
「保守主義を謳う、非保守主義者」
SATOKENJI says:
2月 17, 2018
生前最後の著作となった「保守の真髄」の215ページには、
ドストエフスキーの「悪霊」に登場するスタヴローギンという人物のあり方が
ニヒリズムの例として挙げられています。
いわく。
彼は徹底した合理主義者として
おのれが生きていることにまったく意義を見出せなくなった段階で、
ロープに石鹸を塗って滑りをよくしつつ、
自裁しはてる。
ほとんど同じことをやらかす二ヶ月前のお言葉でした。
sawa says:
2月 17, 2018
虚無主義の必然を理解しつつそれと戦うことを標ぼうしてきた西部邁氏の死を、どんな価値を信じることも積極的に拒否したスタヴローギンの死と重ねるのは酷ではないか……と思えましたが。
今回の自死は、氏が虚無主義に負けた結末、というお考えなのでしょうか。
突然の不躾なコメントをお許しください。
SATOKENJI says:
2月 17, 2018
問題は、生前最後の本、
しかも255ページ以下では「なぜ自分は自殺するのか」について語った本の
215ページにこれが出てきてしまうことなのです。
のみならず、216ページにはこう書いてある。
述者(西部先生)は、若いときのことにすぎないが、
マルロー風に、
いやそれ以上にスタヴローギン風に、
相当にイカれていたと認めてもよい。
そして260ページでは
“自分が周囲や世間に何も貢献できないのに
迷惑をかけることのみ多くなると
予測できる段階では生の意義が消滅する”
と判断しなければならない。
とも語っている。
となると、
おのれが生きていることに
まったく意義を見出せなくなった段階で、
ロープに石鹸を塗って滑りをよくしつつ、
自裁しはてる
というスタブローギンのあり方と、
遺憾ながらあまり変わらないのではないかと
言わざるをえないのです。
momo says:
2月 17, 2018
注意したい点は、ビジネス知識人らのような「偽保守主義者」ではないという事。「非保守主義者」ではあるかもしれませんが。
更に付け加えると、保守主義者としての西部邁と、西部邁という個人の美学や思想は別物と考えてもよいと思う。
また、保守主義者がその身で保守主義を実践しなければならないという事でもないでしょう。西部邁は保守主義者だったのかもしれません。
ただ、自殺したせいで、それまでの西部邁の保守思想の価値を貶めたという事でもないと思う。
個人的な感想を述べると、西部先生は保守主義者という感じはしなかった。どちらかというと革新的というか、左翼的な傾向があったように思う。
だからこそ自分を保守と名乗り、保守思想を啓蒙する事で、内に秘める破滅願望を理性や理論で押さえ込んでたのかもしれない。
失礼を承知で申し上げるが、逆に言うと、西部邁の最後を肯定する事で、
西部邁の保守主義の価値を貶める事にもなりかねない。
保守主義者として著名だから、何がなんでも正しいとか、
保守主義者に間違いないという評価はとても危険だと思う。
何故か保守主義が正義のように語られる今だからこそ、慎重に評価しなければ。ビジネス保守を盲信するのと本質的に同等になってしまうのではないか。
豆腐メンタル says:
2月 17, 2018
失礼します。
脇の甘い思想と実践の私からすれば、「西部邁は保守主義者ではない」「保守主義を謳う、非保守主義者」は厳しい評価と思います。
近代とは西部先生をして飲み込まれるニヒリズムの時代。地獄の永遠の責苦の中にある者に対して希望を捨てるなと要求するようなものでしょう。
しかし、生前の西部先生の徹底的な批判や懐疑や合理の態度で西部先生の死を考えるのであれば、その謗りは免れない。佐藤先生もその点を明確にしておられます。
表現者クライテリオンはまだ読みきれていませんが、やはり、ニヒリズムにどう抗うのかというテーマが大きく現れています。
私の想いとしては、ニヒリズムに抗う保守思想と実践の追求ではなく、”地獄”の環境を改良しうる保守思想と実践を追求していただきたい。
やはりインフラという視点はなくてはならないと思います。また「息のしやすさ」と浜崎先生が言われていたのが印象的でした。ただ同時に、そんな悠長なことを言っていられるものかと、私自身のニヒリズムがニヤついています。。
ハメを外す保守(”ヒーロー”という意味でなく)が求められている気がします。
失礼しました。
SATOKENJI says:
2月 17, 2018
西部先生ほどの人物をもってしても、最後まで保守主義者でありつづけることはできなかった。
こう考えてはどうでしょうか。
豆腐メンタル says:
2月 17, 2018
私のニヒリズムが一瞬で極大になりました笑
なんとニシベススムが起きあがり仲間になりたそうにこちらを見ている!
仲間にしてあげますか?
宇宙のジョークです。。うーむ。よく考えていきます。
メイ says:
2月 17, 2018
西部さんの自死について。
どんな思想を持っておられようが「死のう」と思ってしまう事ってあるんじゃないかな・・。
佐藤さんは「なぜこのタイミングで」と思われたかもしれないけれど、新しい表現者が出てそれをお読みになった後で自死されたら、その方がショックは大きかったのではないでしょうか。
西部さんの亡くなり方に対して、美化してしまうのは、うなづけないとは思っています。
病院で寿命を待つような生き方・亡くなり方をする人がたくさんいらして、それを否定する事に繋がってはいけない、と思うからです。皆が、それぞれの価値観を持っているのですし。
西部さんが、なぜ自死を選ばれたのか、理由は色々あるのかもしれませんが、言葉に出した事がその人の全てではないでしょうし・・。
佐藤さんが西部さんの自裁死の意志について知った時、今回ブログにお書きになった事を生前、西部さんに聞いてみた事があるのか、だとしたら答えは得られたのか?知りたいところです。
SATOKENJI says:
2月 17, 2018
最後にお会いしたのは2016年の8月だったので、うかがうことはできませんでした。
しかし西部先生、何年にもわたって「早く死にたい」と繰り返していたので、
死にたい気分を抱えつつ、しぶとく生き続けるのも保守的精神のあり方だろう
とは思っていました。
メイ says:
2月 17, 2018
しぶとく生き続ける事が保守主義なのかどうか、私には判らない。
西部さんは自分以外の誰かを保守しようとしたのかもしれないし・・。
「自分はこういう思想だからこう生きる」と考えていたとしても、人生って意図した通りに生きられるかどうかも不確かです。
計算通りいかなかったり、思いもよらない事が起こったり、自分でも悪気無く気づかないうちに大きな過ちをおかしていたことに気づいて苦しんだり、自分が存在するからダメなのではないかと悩んだり、言論人という立場だから知ってしまった公開しにくい情報があったり、いつか判断力が薄れてしまった時に口にしてしまったら困るから自分の口を塞ごうか・・と考えてしまうとか・・。
思想と自死とは、別の事のように思えてしまう。
西部さんとお会いしたこともないですから、印象しか言えないですが、お茶目で情のある方のようで、私は好きでした。
西部さん、チャンネル桜の討論にお出になっている時に確か、何かを批判した後で「佐藤健志君とは、話したいと思うけど!」と、仰って・・記憶で書いているのではっきりしなくてすみません。
あれって、佐藤さんをアシストしてあげようというような気持ちだったのではないかなあ。
ですが、西部さんは言論人ですから、ご自分の意見と明確に違う時はお弟子さんであっても批判するでしょうし、アシストばかりするのはおかしいですから、言論人としての責任とか自立性をお持ちだったように感じます。なれ合いにならないようにも、されていたような・・。
そう考えると言論の仕事というのは、孤独なものかもしれませんね。
ちょっと話は変わってしまうかもしれませんが、西部さんは「近代」というものに批判的だったと思いますし、個人的にはシンパシーを感じる部分だったのですが、チャンネル桜は「近代」を肯定しているようにみえるのに、西部さんはなぜ繋がっているのか、少し不思議でした。
SATOKENJI says:
2月 17, 2018
近代(化)は否定できないが、だからこそ批判的にとらえるべきだ
というのが、先生のスタンスだったと思います。
玉田泰 says:
2月 26, 2018
近代(化)を駆動したのは、化学がホモ・サピエンスにもたらした「進歩」主義だと思います。科学は、「より良い将来」を約束しました。そして、もたらしたのは良い側面ばかりではありませんでした。
ですが、今や人類は「進歩」を信仰しています。資本主義・共産主義・人権思想・ナチズム・・・、近代思想は「進歩」を前提にしています(「お金」が力を持つのも「進歩⇒価値が将来上昇すること」が信じられているからですね)。それら様々な主義から設計された社会構造は、現在進行形であらゆるものを食い散らしながら暴走しているように見えます。
「進歩」が文明のアクセルなら、それを批判的にとらえ、ブレーキを効かせようと試みることを「保守」主義と呼ぶのではないでしょうか。安定した「進歩」のためにもブレーキを求める人々がいるのだと思います。進むしかないのなら緩やかに、と言うことだとおもいます。
西部氏は結局、ブレーキ(保守)を見限り、だから自死されたと思います。保守の必要を誰より強く感じられていて、最期にはご自身(の保守思想)と文明とを見限られたと思います。
先生、西部氏は、ご自身(の思想)には、ブレーキをかけること能わず、だったのでしょうか?
おかずじゃねえよ! says:
2月 18, 2018
少なくとも個人的な生の次元では、西部先生は保守主義を纏った実存主義者だったのだと思います。
表看板に掲げていた保守主義は、実のところ、実存主義を支えるための二義的なものだったかもしれません。
大多数の人間の生の頽落を嫌悪し、己の人生問題においては二者択一の決断主義的、一方で信仰と虚無の間で揺れ動くために思索を重ねる。(あと、理屈っぽく見える観念的な言葉遣いも・・・)通俗的でありますが実存主義者の態度であり、西部先生と重なる部分があるような気がします。
佐藤先生は、保守主義の前提条件に社会や歴史の連続性を尊重することを挙げておりますが、少なくとも個人的な生の文脈において、西部先生は実存主義者故にあまりその点を重視してなかったのではないでしょうか?
己が決断するための判断材料として伝統を参照するという構えが強かったように思います。
poti says:
2月 18, 2018
矛盾の間で耐えられなくなった時、ロープから滑り落ちて死ぬのが保守主義者なのだと理解します。
狂気や死というものと隣り合わせで生きざるを得ない中で何とかして正気を保とうとしなければならない。
雑に言えば、死んだ方がマシな世の中でどうにか生きていく考え方ともいえるでしょう。
日本列島を一種の巨大なキチガイ病院や収容所とでも捉えなおし、何とか生きていく方法を模索していきたいですね。
ナチス・ドイツの収容所の生き残りや戦場でのサバイバルがその意味で参考になります。
通りすがり says:
2月 18, 2018
西部邁という人物は、本質的には保守主義ではなかったというべきではないでしょうか。
世の中があまりにおかしいため、何処かに「良い道」はないかと考え、探し、皮肉を交えて表現し続けた結果なのであって、
自己の中の浪漫を追い続けた結果保守主義に到達したのではないでしょうか。
つまり、「保守」を自称していたのではなく、言いたいことを言っていたように思うのです。
安保体制は違う、経済学は違う、構造改革は違う、グローバリズムは違う。
そうなった時、「じゃあ処方箋を出してみろ」と言われて、考えに考え抜いた結果が著書の数々なのであって、「処方箋なんて無い」という態度ではなく、まず口を開いてみようとしたのだと思います。
ただ、そのまとめ方が言葉ではなく図や表であることが多いというのは、
まるで「保守」というものをすら、高いところから眺めて、それをスケッチしたということではないでしょうか。
西部ゼミナールの締めの言葉を思い出すと、いつも笑ってはいらしゃいましたがいつもネガティブな言葉でした。
「あーあ」
「絶望する人が増えることが唯一の希望である」
「あとは若い人に任せよう」
「人は一人で死ぬのである」
如何ともし難い今の世について、佐藤さんや中野さん、藤井さんと話をして、
「これはやはり如何ともし難いな」という結論になっていたのだろうと思います。
これは別に本質的に保守的な人でなくとも、論理的思考が出来る人であればそういうことになると思います。
佐藤さんや他の方々の「こうだと思う」という話を基本的には聞くだけで、
西部さんからは「それでもどうしようこうしよう」というプラグマティックな話は無かったように思い出すと、
社会をより良くするという泥臭い実践は弟子に任せ、西部さん自身はそれを監督…というと大げさですが
高いところから見ていたのだと思います。
要するに、「私は好きにした、君らも好きにしろ」を文字通り行ったのではないかと思うのです。
葉月 says:
2月 22, 2018
佐藤さんの分析力というか、幅の広さ、時に感動的です。
あらゆる視点から物事を捉える事のできる貴重な現代人だと思います。
これからも、ご活躍を楽しみにしています。