12月1日の記事
「議論と相対主義」では、
中野剛志さんが留学したエジンバラ大学で、
教授たちがそろって相対主義を非常に嫌っていた、
というエピソードをご紹介しました。
あの意見も良い、
この意見も良い、では
議論が深まるはずはないので
これは当然の話です。
しかし、相対主義を嫌う姿勢も
行き過ぎれば独自の弊害を伴う。
つまり議論が単純化されすぎるんですね。
事実、アメリカの某名門大学に留学した人が
こんなエピソードを話してくれたことがあります。
その人は同大学の教授から
論文を書くとき、ひとつの文ではひとつのことだけを言うように
と指導されたとか。
自由主義は正しい!
社会主義は失敗した!
格差拡大は間違っている!
・・・内容は何でもいいのですが、
とにかく、ひとつのことを言い切れと教えられたのです。
自由主義は正しい方向だし、
社会主義の失敗が示すとおり、平等への過度のこだわりは社会の活力を阻害するものの、
格差拡大を容認することは無視しえない問題を引き起こす。
こんなふうに書いてはいけないらしいんですね。
自由主義は正しい方向だ。
社会主義の失敗が示すとおり、平等への過度のこだわりは社会の活力を阻害する。
だが格差拡大を容認することは、無視しえない問題を引き起こす。
こうしなくてはいけない。
けれども二つの文章を比べていただければお分かりのように、
同じことを言っていても、後者のほうが単純化されているというか、
微妙なニュアンスが落ちてしまいます。
「自由主義は正しい」
「社会主義は失敗した」
「格差拡大は問題を引き起こす」
この三つの命題の関連性というか、重要性のバランスが見えづらくなるためです。
すると面白いことに、
ひとつひとつの文では何かを明快に言い切っている後者のほうが
文章全体としては
あの意見も良い、この意見も良い、という相対主義に近づきかねない。
まさに両極端は相通ず。
これが進むと、
断定的なワンフレーズをわんさか用意して、
相互の整合性を気にせず列挙しておけば完璧、という話になるでしょう。
三橋貴明さんの表現にならえば「全部乗せ」です。
ワンフレーズと全部乗せは、対極でありながら表裏一体でもあるのです!
ちなみに「ひとつの文ではひとつのことだけを言え」のエピソードを
中野さんに話したところ、
「それじゃ、ちょっと複雑なことは何も言えなくなる!」
とのお返事でした。
同感です。
ではでは♬(^_^)♬
7 comments
NOA says:
12月 2, 2014
佐藤先生の最終的なご主張には全く異論はございません。
私が引っ掻き回してしまったブログ(のコメント)の後始末を佐藤先生にはお任せしてしまっているみたいで、なんだか申し訳ございません。
その上で、今回のエントリーからひとつ感じたことを書かせていただきます。
私はアメリカ留学経験者なのですが、たしかにアメリカには(日本よりもはるかに)自分の主張をシンプルに言うことを求める文化があると思います。サンデルの『ハーバード白熱教室』などを観ると、そのあたりの日米の文化の違いがよく表れていて面白いなぁと感じます。議論の際、学生には、最初に自分が主張した立場を(少なくとも一定期間は)堅持することが暗黙に求められます。サンデル先生がその主張の綻びを鮮やかに突いて、「その主張をそのまま延長すると、こんな不都合な結果が生じてしまうよ」と指摘しても、学生のほうも簡単に「撤回します」とは言いません。多くは苦笑いをしながら(あぁ、この議論詰んでるな・・・という顔をしながら)自らの主張から発した「不都合な帰結」を(少なくともいったんは)引き受けるのです。
私はここに日米(日欧?)の文化の違いを強く感じます。
アメリカには、(あくまでも程度問題ですが)「一度自分が主張した考えについては、その帰結を含めて責任を取らなくてはならない」という暗黙のルールが強く存在しています。私を含めた普通の日本人にとって、これは非常に違和感のあるルールです。回答を述べるときは必ず「yes,no」の二者択一の形で言わなければならない「ルール」になっているプラトンの対話篇などにも、同様の違和を感じます。
ただ、彼らの議論の仕方を一概に単細胞なものだと決めつけることはできない、というのが私の考えです(佐藤先生がそうおっしゃっているとは思っておりません)。というのは、彼らにも彼らなりの「ニュアンス」の示し方が存在していると思うからです。一言でいうと、彼らにとっての「ニュアンス」(あるいは「妥当な落としどころ」)は、あくまでも相手(他者)との対話の中で結果として(全体として)示されるものなのです。極端にいうと、一人で妥当なニュアンスを語り切ってしまうのは、向こうではルール違反なのです。
このように、アメリカでは何かの主張をするときは、常にそれについての議論が起こること(議論が続くこと)が暗黙の前提となっているように感じます。それに対して、日本には、議論に際してアメリカのような強いルールはありません。単純に主張を述べることもOKだし、予め相手方の主張を含み込んだ形で、言いかえると最初から「妥当」を一気に目指す形で主張を行っても構わない。抽象的にいえば、日本はそういう文化なんだと思います。
私は法律関係の仕事をしているのですが、特に法(裁判)という西欧型の制度を扱う場面において、この日米あるいは日欧の文化の違いが、極めてはっきりとした形であらわれる気がしています。
裁判というのは、ご存じの通り、原告と被告の争いを裁判官がジャッジするものですが、日本で実務的な観点から法を学ぶ際に、多くの学生が最初に突き当たる困難があります。それは、紛争当事者(原告・被告)の目線「だけ」に立って、露骨に一方の利益「だけ」を主張することです。まるでヤクザの言いがかりのように、相手の事情など微塵も考えず、まずは自己利益「だけ」を露骨に訴えること。これが日本人には難しいのです。
露骨な利益を主張し合うということの中には、当該紛争における議論の実益(集中的に議論しなければならないポイント)を炙り出すという意義や、(同じことですが)細かく議論を繋いでいくことで議論自体を深めてくという意義が本当はあるのです。ところが、日本の学生に「原告の主張」を述べさせると、最初はほとんどの人が、相手の心情や利益を予め存分に含みこんだ形で(今回のエントリーでいえば、「ニュアンス」を十分に含みこんだ形で)主張を立ててしまいます。ようするに、いきなり「判決」を出そうとしてしまうのです。良くも悪くも、これが日本人の議論の作法です。
日本人に裁判の演習をさせると、このように原告役の人も被告役の人も裁判官役の人も、最初は全員が「裁判官」になってしまいます。つまりは、裁判が原告・被告・裁判官の三者によって行われる意味がなくなってしまうのです。
もちろん、このような日本人的な議論の作法にはメリットもデメリットもあると思います。果たして真に相手(他者)を必要としているのがどちらなのか。それは具体的な状況にもよると思います。したがって、私自身も決してどちらか一方に肩入れしたいわけではありません(両者のバランスにこそ解があることは間違いないと思います。)しかし、相対的に日本人に足りないのがどちらかと問われれば、間違いなく先ほど挙げた原告的思考のほうではないかと私は感じます。
akkatomo says:
12月 2, 2014
思うに。その場面ではどうすべきか、何が許されているのか
TPOの再定義、再発見が重要なのではないでしょうか
どうすればいいのか、そういう空気さえ読めれば対応出来る人も増えるような
こういう事を書いておりますと、一種のハレ、ケ思想みたいな感じが連想されます
もしくは演劇、能や狂言のように役割を割り振られているものというか
ある種の、異質さを許容する場、時間とかなんとか
そういう区切り、区別、画するということ
現実に場所としてある訳ではないですが、時処立場を置く事で役割を割り振る、
これを単に裁判の場を超え、風習や習俗のように土着化できないものか
akkatomo says:
12月 2, 2014
尚、日本人が全員裁判官になりがちだというならば、
日本人の作法による議論では、そもそも議論の目的、語られていること、
参加者の心根がまともでないと議論がろくでもない事になりそうです
そういう訳で、日本人が議論する際は
「お天道様に顔向けできるか」そう真顔で自分に問いかけながら話すべきなんでしょうね
別にお天道様でなくとも、天地神明やご先祖様、神様に対して恥ずかしくない行いか、
こういう道徳面こそが重要そうです
全て裁判官は己の良心にのみ従うべし、でしたけ
ハンニバル says:
12月 2, 2014
「悪文の構造」(千早耿一郎著)という本があります。
その本では、悪文の最たるものとして長文を挙げています。
その本を読んで以来、私は文章を短くするようになりました。
そのことにより、自分の意図を読み手が理解しやすくなりますし、
そのこと自体が読み手に対する配慮であると思います。
国語学習において、文章を読む訓練はされていても、文章を書く訓練は不足しているように感じます。
プロの物書きにおいても、日本語として正しいのか疑問に思う文章も多々見受けられます。
日本語って難しいですよね^^;
例1)
「自由主義は正しい方向だし、
社会主義の失敗が示すとおり、平等への過度のこだわりは社会の活力を阻害するものの、
格差拡大を容認することは無視しえない問題を引き起こす。」
という文章ですが、これはさすがに長すぎると思います。
書き手が最も言いたいことは三行目の内容であり、1~2行目は補足する内容です。
3行目に至るまで、読者は結論を伝えられず右往左往することになります。
例2)
「自由主義は正しい方向だ。
社会主義の失敗が示すとおり、平等への過度のこだわりは社会の活力を阻害する。
だが格差拡大を容認することは、無視しえない問題を引き起こす。」
先ほどの文章よりは、読み手にとっては遥かに読みやすいです。
しかし、これでは確かに微妙なニュアンスが抜け落ちます。
では以下のようにすればどうでしょうか。
例3)
「確かに、自由主義は方向性としては正しい。
また、社会主義の失敗が示すとおり、平等への過度のこだわりは社会の活力を阻害するものだ。
しかし、(たとえそうであっても、)格差拡大を容認することは、無視しえない問題を
引き起こすのではないだろうか。」
このように、一文目の文頭に「確かに」という言葉を付け加えることで、
全体の文章を短くしつつ、「微妙なニュアンス」も表すことができると思います。
長々と文書を書いてしまってすいません。
要は、たとえ文章を短くしたとしても、書き手や編集者の工夫次第で、
微妙なニュアンスを伝えることも十分可能なのではないか?ということでした。
(最初の文章が、読み手としてあまりに辛かったものでして^^;)
ハンニバル says:
12月 2, 2014
ちょっと訂正します。
> このように、一文目の文頭に「確かに」という言葉を付け加えることで、
> 全体の文章を短くしつつ、「微妙なニュアンス」も表すことができると思います。
全体の文章ではなく、一文あたりの長さを短くする、の間違いでした。
後、もともとの例文の一行目の
「自由主義は正しい方向だし」という文章は、ちょっとおかしいですよね。
主語と述語を抜き出すと、「自由主義は方向である。」となってしまいます。
例3のように「自由主義は方向性としては正しい」とすべきですね。
日本語って難しいw
SATOKENJI says:
12月 2, 2014
たしかに方向性とすべきでした。ありがとうございます。
akkatomo says:
12月 2, 2014
ただ、悪文には悪文なりの魅力というか、そんなものがあるよにも思うのですが
理解される為の文章ではなく、理解させる為の文章
そういう挑戦的なものがあってもいいと思いますし、文化解釈の面白味って
要は誤読と自己流でもあると思うので
人から容易に理解されるという事がよい文章の条件では必ずしもないように思います
第一、簡単に理解できるようなものばかりでは面白くない
数多の誤読誤解を含みながらも、数え切れない程の価値を生み出す文章
こういったものもあるように思います。ニーチェとか聖書とか