昨日、「新日本経済新聞」に発表したメルマガ

「『憲法九条にノーベル賞を!』の賢」について、

村田さんという方からコメントをいただきました。

全文をご紹介します。

 

佐藤健志さんの著作も数冊買わせて頂いてる最近ファンになった者ですが、

今週水曜日の“三橋貴明の「新」日本経済新聞”(以下、三橋メルマガ)の内容に思うところがあったので、

失礼ながらこちらでコメントさせて頂きます。
施さんの書いた無料で読めるメルマガの内容を、同じメルマガ内で

>施さんはこの点に関し、向こうの主張に乗せられてしまっているように思います。

と否定しておきながら、

なぜ否定できるのかはそこで言わず

「なぜか知りたかったら有料のちょくマガを読んでください」ということでは

(佐藤さんにその気はないでしょうが)施さんを利用しているように見えてしまって失礼な気がしますし、

三橋メルマガ読者をもやもや、ないし不快にさせ佐藤さんへの反感を呼んでしまうと思います。

そのような意見の方を某掲示板等でも見かけ

ファンの一人として悲しく思ったので、お伝えしたく思った次第です。

 

もちろんちょくマガの記事を先に書いてあるからという事情もあるのかも知れませんし、

内容は佐藤さんのおっしゃるようにとてもお得なのでしょうし、

言論を職業とされている方が無料のものだけでなく

有料の言論を読んでほしいと思うこと自体は当たり前過ぎることなのですが、

施さんが無料で公開しているメルマガを

同じメルマガ内で否定する作法としては美しくなかったのではないでしょうか。

 (注:文中、特定の第三者にたいする否定的言及があったので、

その箇所のみ削除しました)

 

コメントありがとうございました。

お気持ちは分かります。

 

とはいえ「新日本経済新聞」を読み返していただきたいのですが

村田さん、ちょっと誤解されているようです。

私の主張をあらためて要約しておきましょう。

 

1) 施さんが「憲法九条(を保持する日本国民)のノーベル平和賞受賞」に反対するのは、

それが改憲を阻害する効果を持つと判断しているためであろう。

 

2)平和賞受賞の運動を展開している人々が、改憲阻止の意図を持っているのは間違いない。

ただしそれは、「平和賞受賞が改憲を阻害する」ことを客観的に証拠立てるものではない。

 

ここまでは記事本文で展開しましたね。

そのうえで、

 

3)むしろ「九条を保持する日本国民」の平和賞受賞は、改憲を促進する効果を持つのではないか。

 

という点を提起し、「ちょく論」へとつないだわけです。

 

(1)と(2)が妥当な認識であることは、村田さんにも賛成していただけるでしょう。

しかるにその場合、(3)の根拠を示さなかったことは、

施さんの主張を否定する根拠、

より正しくは、彼が受賞推進派の理屈に乗せられていると考える根拠を示さなかったことと

イコールにはなりません。

なぜか?

 

九条を保持する日本国民の平和賞受賞が、

本当に改憲阻止の効果を持つのか、

持つとすればなぜ持つのか、

そもそも施さんは論じていないからです。

 

施さんのメルマガから引用しましょう。

 

この運動の結果、九条がノーベル平和賞を受賞してしまえば、

九条改正はいまよりもかなり難しくなるでしょう。

米国依存からの脱却が遅れます。

 

平和賞を取ることと、改憲が難しくなることの因果関係は、

自明のごとく扱われていますね。

ここに引っかかるわけです。

 

はたして本当に自明か。

受賞運動を展開しているのが護憲派であることから、条件反射的に導き出された結論ではないのか?

 

佐藤栄作元総理は、1974年にノーベル平和賞を取りました。

受賞理由は(驚くなかれ)非核三原則の提唱です。

とはいえこれは、国内の左翼護憲派を活気づかせたか?

日米安保体制に悪影響を及ぼしたか?

 

答えはどちらもノーなんですよ!!

1970年代を通じて左翼の没落、つまり日本社会の保守化は続き、

「ロン・ヤス」(レーガン=中曽根)というフレーズに象徴される

1980年代の日米同盟強化へと行き着きました。

施さんも当然、このことはご存知のはずでしょう。

 

(憲法九条を保持する)日本国民が平和賞を取ったら何なのか?

それが改憲を難しくすると判断する根拠はあるのか?

 

施さんはこれについて論じる務めがありました。

因果関係が明確でないとすると、

論旨が根底から揺らぎかねません。

平和賞受賞が、米国依存からの脱却を早める可能性も出てくるからです。

 

にもかかわらず、それをやっていない。

 

となると、

施さんは「平和賞受賞=改憲阻止」とする向こうの言い分に乗せられてしまっているのでは?

と推論しても、邪推とは呼べないでしょう。

 

さらに施さんは一貫して

「憲法九条がノーベル平和賞を」と書いているものの、

これはハッキリ、間違いです。

 

九条が平和賞を取る日は来ません。

永遠に来ません。

ノーベル平和賞は、個人か団体にしか授与されないためです。

 

平和賞候補となっているのは日本国民。

そこに「日本国憲法、とくに九条を保持する」という枕詞がついているのです。

 

「(九条を保持する)日本国民」が平和賞を取るのと、

九条そのものが平和賞を取るのは、はたして本当にイコールか?

 

施さんはふたたび、自明にイコールであるかのごとく扱っています。

けれども憲法の条文と、国民全体とは明らかに別物である以上、

なぜ両者を同一視して良いのかについての根拠が提示されないかぎり、

正確な議論とは呼べません。

失礼ながら、出発点となる事実認識が誤っている恐れだってあります。

 

しかるに平和賞受賞の運動を進めている人々は、

本当は「日本国民」を候補にしているにもかかわらず

「憲法九条」が候補であるかのように言い続けている。

 

となると、

施さんは「日本国民の受賞=九条の受賞」とする向こうのレトリックに乗せられてしまっているのでは?

と推論しても、邪推とは呼べないでしょう。

 

というわけで、施さんが受賞推進派の理屈に乗せられていると考える根拠

(2)の段階でそろっているのです。

 

私が提示しなかったのは、

(九条を保持する)日本国民がノーベル平和賞を取ることは、むしろ改憲を促すのではないか

という自分の主張を肯定する根拠にすぎません。

だからこそ、(2)と(3)の間で線を引いたのです。

 

有料メルマガで先に書いたことを

再度、書くわけにはいかないという事情もあります。

ただし、自分の主張が正しいことを論証しないかぎり、

相手の主張が間違っている(より正しくは、十分論理的に展開されていない)と論証したことにならないと見なすのは、

この場合、正しくありません。

 

「日本国民の平和賞受賞は、改憲を促す効果を持つ」という私の主張が

正しいかどうかとは関係なく、

施さんの主張の立て方は、論理的に詰められていないのです。

 

よって、最後の部分を有料メルマガにつないだとしても、

私の議論がフェアでないことにはならないと思います。

施さんの主張にたいする問題提起、

およびその根拠の提示は、

あの記事の範囲内ですませてあるからです。

 

私自身の主張の肯定が完結していない点に

モヤモヤを感じた方がいれば申し訳ありません。

ただし「否定する作法」としては、美しいとまで言えるかどうかはともかく、

ルール違反ではないと認められるのではないでしょうか。

 

ということで、ご理解いただければ幸いです。

 

・・・もっとも。

問題提起こそしましたが、

私は「『憲法九条にノーベル平和賞を』という運動は愚である」という施さんの結論について、

少なくとも半分は肯定しています。

 

だからこそ、

「愚にして賢」

「愚であるにもかかわらずの賢」

「愚ならではの賢」

繰り返したではありませんか。

 

そこのところも、ぜひよろしくお願いします。

ではでは♬(^_^)♬