「文は人なり」という格言があるように

言葉をどのように使うかには、その人の内面が出ます。

これについては隠しようがない。

 

話すときだってそうですが、

より重要なのは書くとき。

 

書いた文章については

見直して手を入れることができるからです。

そして自分の納得の行く文章でなければ

人に見せたりするはずがない。

 

つまり文章とは

「これが私にとって納得の行く、私の内面のあり方です」

と宣言しているようなもの。

 

以上の点を踏まえたうえで

9月20日の記事「グローバリズムと疫病根絶」(「国際・海外」カテゴリー)に寄せられた

あるコメントを取り上げましょう。

 

書いてきた人は「馬鹿にするな」さん。

名前がすでに多くを語っていますが、

コメント本文はもっと多くを語ります。

 

以下、全文。

分析しやすいよう、番号をつけて区切っておきましょう。

 

1)八紘一宇を馬鹿にされているようですが、

2)水島氏がこの言葉を大事にしていることを知った上で、そのように仰っているのでしょうか。

3)だとしたら何様のつもりですか、と言わざるをえません。

4)この件は水島氏に伝えておきますので、あしからず。

 

ここからうかがわれる「馬鹿にするな」さんの内面ですが・・・

まずは(1)の文。

 

「馬鹿にするな」さん、私が八紘一宇を馬鹿にしていると思っているようです。

とはいえこの理解は、常識的判断に照らして妥当なものか?

 

記事の中で、私はこう書いたのです。

 

(アメリカがグローバリズムの追求から手を引きつつあり、

それが世界に戦争の危機をもたらしているというのは)

 

一昨日のブログでも書いたとおり

いったん広げた大風呂敷は

トラブルなしには畳めない

という話。

 

裏を返せばグローバリズムとは、貫徹できないくらいなら掲げないほうが良い理念なのです。

 

かつて日本が掲げた「八紘一宇」もそうでしたね。

あれはいわば、日本主導のグローバリズム。

だからこそ当時は、八紘一宇の達成こそが公正な世界平和をもたらすと言われたのです。

 

ただし、これも貫徹はできなかった。

そのときどんなトラブルが生じたかは、みなさんご存知の通り。

 

これって、八紘一宇の理念をバカにしていることになるんですかね?!

 

私の論旨のポイントは以下の通り。

1)ある理念が崇高かどうかということと、その理念が貫徹可能かどうかということは別の話である。

(注:実際には崇高な理念ほど、えてして貫徹不能だったりしますが、この点はいったん脇に置きましょう)

 

2)世の中には、貫徹できれば素晴らしい(かも知れない)が、中途半端に掲げると、かえってトラブルを引き起こす理念も存在する。

 

3)特定の国が全世界の国際秩序を仕切り、それによって平和や繁栄をもたらすというグローバリズムの理念を実践しようとすれば、他国との摩擦や対立は不可避。

よってグローバリズムは、貫徹できないかぎり害のほうが多い危険が強く、(2)に該当するタイプの理念である。

 

4)八紘一宇の理念も、同様の特徴を持っていた。大東亜戦争というトラブル(そりゃトラブルでしょう。戦争なんですから)は、これを実践しようとしたことの不可避的な結果である。

同時に敗戦・占領は、八紘一宇を貫徹できなかったこと(そりゃそうでしょう。大東亜共栄圏を樹立するどころか、本土決戦にまで追い詰められたんですから)によって生じたトラブルと見なしうる。

 

私が八紘一宇をバカにしていると思った人、手を挙げて!

あ、「馬鹿にするな」さんは除外します。

 

・・・たぶん、一人もいないんじゃないですかね。

 

こう言っては何ですが

通常の文章読解力(定義:新聞の論説や、一般向けの書籍の内容がおおむね正しく理解できる程度の「読む力」)があれば、

そんな結論は出てきません。

 

なるほど、私は八紘一宇を貫徹不能な理念と規定しました。

しかしこれは、この理念が崇高かどうかとは別の話。

いや、崇高であると認めたにひとしいとさえ言いうる。

崇高な理念ほど、えてして貫徹不能なんですから。

 

そして八紘一宇は、現に貫徹不能だったんですよ!

だから負けたんじゃないですか、日本は!

 

というわけで、「馬鹿にするな」さんのコメントは

最初の約20文字で完全に崩壊します。

 

人間、誰しもバカにされたくはないでしょうが、

世の中、「自業自得」とか「身から出たサビ」ということもあるんですよ。

 

しかし「馬鹿にするな」さんの内面が、いっそう浮き彫りになっているのが(2)以後。

明日はこれを取り上げましょう。

 

ではでは♬(^_^)♬