8月30日の記事
「『簡単な方法』のパラドックス」について
やまねろんさんから
こんなコメントがありました。
書道の師に、創作における基本として、
「全体の調和が何よりも勝る」
と教わりましたが、
創作にのめり込む程に細部への執着が強くなってしまうんですよね。
「自由度や選択肢の増加は、幸福をもたらすのか」
という命題と同じく、
映画におけるCGも、
使いこなす技量が伴わなければ、振り回されて終わりってことなんでしょう。
このコメントには非常に深いものがあります。
とくに文字の色を変えた箇所にご注目。
やまねろんさんが書いているとおり、
全体の調和が何よりも勝る
ということは
細部に執着すれば良いわけではない
ことを意味します。
むしろ
全体の調和をつくりあげるために
細部(ディテール)には執着しない
ことが必要になる場合もあるでしょう。
ただし執着しないというのは
手を抜くこととイコールではありませんよ。
ディテールは描き込めば描き込むほど良いはずだ
という発想を捨てて
何を描き込み、何を省略したら全体の調和が生じるか?
にこだわるということです。
実際、英語では細部の描写について
well-chosen details
(巧みに選ばれたディテール)
という表現がある。
キーワードはむろん「選ばれた」です。
「選ばれた」ディテールが描写されているということは
「捨てられた」ディテールもあるということ。
その取捨選択の仕方が巧みかどうかが
作品の出来を左右するのです。
あえて描写しないことも、重要な細部への執着である。
そういう表現もできるでしょう。
スティーブン・キングも
描写過剰は作家の陥りやすい罠であると述べていました。
しかるにデジタル技術においては
ディテールとデータ(情報、ないし情報量)が同一視されやすい。
そしてデータについては
多ければ多いほど望ましい(=正確さがあがる)という通念があります。
実際、巧みに取捨選択するというのは
データの使い方としては邪道なのです。
最近のハリウッド娯楽映画に
CGに振り回されている感の強い作品が多いのも、
このあたりに原因があるのではないでしょうか?
CGもデータの世界。
情報量が多ければ多いほど精密になります。
そのせいで
細部描写のカギは取捨選択にあることを忘れ
とにかくどんどん描き込めばいいんだ!
と錯覚してしまうのではないか、ということです。
全体の調和が何よりも勝る。
じつに良い教えですね。
ではでは♬(^_^)♬
2 comments
Guy Fawkes says:
9月 1, 2016
今年の三ヶ日明けに掲載された関連記事にもありますスタジオジブリ作品の「思い出のマーニー」についての
FINE ON THE OUTSIDE(うわべだけは元気そうに)という言葉も今回の記事と合わせて読むと意味深長ですね。
「幻想政治」という概念を提唱された『夢見られた近代』の「華氏911」を送り出した
マイケル・ムーア監督作品への章でも伝えたい政治的主張だけを前面に押し出しても伝わらない事を論じられていました。
政治も創作活動も人間関係と同じく自己と相手との「距離感」が大切なのですね、私が言っても説得力ありませんが(苦笑)
追伸:先日のコメントについてのお伺い立ては私の思い違いでありました。
お手間を掛けまして大変申し訳ありません。
玉田泰 says:
9月 8, 2016
前回のコメントに続いてまた映画に例えるならCGのない時代、2001年もまた徹底的にディテールが創り込まれた映画(なぜか、月面基地での会議で皆がスタスタ歩いていましたが、笑)でしたが、それでもストーリーを堪能するえいがとして成立しえていたのは、キューブリックの強烈な美意識が小手先の技術を超えていたからなのでしょうね。
まあ、小手先といっても思い通りの画をとるために新機軸のカメラを開発するとか、常識外れでしたが。